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歴史小話集⑤

【増賀上人】
増賀(蔵賀が正しいようだが、増賀のほうがよく知られる)は平安時代の高僧である。
慈恵大師良源に師事し、名聞を嫌って世俗を避け、大和の多武峰に隠棲した。冷泉天皇に護持僧として招聘されたが、これを辞退し、その際、後宮の女房に罵詈雑言を浴びせ、放屁して退出したという。
増賀の伝記には潤色が多く、上記の逸話も真実かどうかはわからない。
多武峰では法華経読誦と念仏に明け暮れ、弟子の育成に務めた。87歳で入寂し、多武峰山中の念誦窟に葬られた。その遺骸はミイラ化していたというが、即身仏として祀られた記録はない(見た弟子が怖がって封印してしまったという)。

【立石寺の謎】
山形県の立石寺は、慈覚大師円仁の開山と伝わる古刹である。松尾芭蕉も立ち寄り、「閑さや岩にしみ入る蝉の声」の句を残している。
立石寺には入定窟と呼ばれる洞窟があり、慈覚大師円仁の遺骸が埋葬されているという伝承があった。学術調査で棺が安置されているのが見つかり、中には人骨が残っていたが、なぜか頭蓋骨は無く、代わりに木造の僧形像の頭部が置かれていた。この頭像は平安時代に遡るという。
立石寺には比叡山延暦寺根本中堂の「不滅の法灯」が分火されて伝わっており、織田信長の比叡山焼き討ちで法灯が途絶えた際は、この火を分火して比叡山に戻したという。

【人肉食の話】
江戸時代は地球規模で寒冷期で、関東以北はたびたび冷害に悩まされ、天明・天保の飢饉では東北地方に甚大な被害が出た。食料がなくなり、家畜の牛馬(本来は農耕用)まで食う有り様で、人によっては死人の肉を食べたという。江戸時代後期の旅行家・菅江真澄の聞き書きによると、人肉を食らった者は青白い顔で目をギョロつかせていたといい、やむを得ないこととはいえ、人肉食は正常な人間にとっては相当なストレスとなったようである。
一方で、これをきっかけに人肉の味を覚え、夜な夜な墓を暴いては肉を食らった女がいて、困った村人に鉄砲で撃ち殺されたという(内藤正敏氏の本の記述)。

【宇治橋架橋について】
宇治橋は瀬田の唐橋と並ぶ古橋である。
伝承によると、京都の宇治川に初めて橋を架けたのは飛鳥時代の僧・道登で、後に元興寺の道昭が架け直したとされる。宇治市の橋寺にある『宇治橋断碑』には道登が架橋したとあり、『続日本紀』には道昭が架橋したとあって混乱が生じているが、『日本霊異記』に宇治橋が大化2年に架橋されたという記述があることや、壬申の乱の際に近江朝廷側が宇治橋を抑えて交通を遮断したとされることから、道登が架橋し、何らかの事情で道昭が再架橋したが、官営事業の側面があった道昭の架橋だけが史書に記述されたと考えられる(松村博先生の説)。

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