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歴史小話集⑥

【安倍晴明の出生譚について】
平安時代の陰陽師・安倍晴明は、大膳大夫・安倍益材(ますき)の子と伝わっている。若い頃の事績ははっきりしておらず、陰陽師・賀茂忠行に師事して40歳で天文得業生となっていた。その後、天徳4年に発生した内裏火災で焼損した霊剣鋳造の功労によって翌応和元年6月以降に陰陽師に任じられ、それから頭角を現していく。すでに50代である。
晴明にまつわる逸話は多く、すでに『大鏡』や『今昔物語集』などに見られる。有名な出生譚は、中世頃に被差別民であった熊野街道沿い(信太山の付近)の散所民が生み出し、近世になって人形浄瑠璃などに採用されて有名になったらしい。この説話の文献上の初出は、中世末期に成立した『三国相伝陰陽輨轄簠簋内伝金烏玉兎集』である(この辺りの記述はWikipediaに基づく)。 この出生譚では、安倍晴明の父親は保名という名になっているが、系図上の父親は前述したとおり益材である。なぜ益材ではなく保名という別人になったのかは判然としない。

【奈良の大仏は一時、露座だった】
奈良県に伝わるわらべ歌に、次のようなものがある。 「奈良の奈良の大仏さんは、天日に焼けて、ありゃドンドンドン、こりゃドンドンドン、正面どなた、後ろに誰がいる(〇〇さん)違いました違いました船の影♪」 「かごめかごめ」に似た、背後の人を当てさせる遊び歌だが、ひとつ疑問が浮かぶと思う。奈良の大仏さんは鎌倉の大仏さんと違って、館の中に入っているのでは?と。
実は、奈良の大仏さんは一時期、露座だったことがある。戦国時代に大仏は兵火で焼失し、再建されたものの費用が足りず、大仏殿は造られなかった。大仏の顔も材料が足りず、銅板で仮作成したものであり、江戸時代に入る頃には非常に傷んでいた。東大寺の公慶上人が、これを悼んで、喜捨を募り再興したのが現在の大仏と大仏殿である。 大仏は平安時代末期と戦国時代の二度、罹災している。奈良時代の当初部材が残っているのは脚部と台座のみで、胴体は鎌倉時代、頭部は江戸時代の補作である。

【「創業」と「守成」】
たしか『貞観政要』だったと思うが、唐の太宗が「創業」と「守成」のどちらが難しいか議論させた話がある。 これについて、房玄齢は「創業が難しい」と述べ、魏徴は「守成が難しい」と述べた。太宗は創業と守成をどちらも経験している人なので、「両方難しい」というかたちでまとめているが、個人的には守成のほうが難しいと思う。
守成は創業と違い終わりがない。創業者が作り上げたものを長く伝えていかねばならないからである。歴史上、2代目、3代目がしっかりしている国家や組織は長続きする。江戸幕府(徳川将軍家)が好例だ。一方で、創業者が守成を担える人材をあらかじめ育てていれば、2代目、3代目が多少アレでも組織が長続きする。ただし、4代目か5代目にそれなりの人が出てこないと、それ以上続かなくなる。これは西漢(前漢)が好例だ。 こう見ていくと、創業より守成のほうが難しいことがわかると思う。大事なのは後継者の育成と意識の切り替えである。


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