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歴史小話集④

【東寺と西寺】
平安京には羅城門の左右に国立寺院である東寺と西寺があった。東寺は別名を教王護国寺といい、現在も存続しているが、西寺は衰退して廃絶し、現在は一部建物(講堂跡だったか?)の基壇が残るのみである(近隣の寺院が西寺の名を継承しているが、関係は不明)。
なぜこう明暗が別れたかというと、西寺が最後まで国の寺院として国家が管理していたのに対し、東寺は嵯峨天皇の時代に空海に下賜され、早い段階で国家の手を離れたためである。国営の施設は国家と明暗を共にする。平安京の総玄関となる羅城門は、弘仁年間に大風で倒壊し、この時は再建されたが、天元年間に再び倒壊すると再建されなかった。西寺も同様で、国家が力を失ったため、道連れとなって衰退したのである。
東寺も平安時代後期に一時衰退しているが、弘法大師信仰の高まりで教学寺院から信仰寺院に転じ、荘園の寄進を受けて持ち直し、現在に至る。
西寺のほうは、東寺のような信仰の拠り所が見つけられず、信仰寺院に転ずることに失敗して衰退・廃絶したと言えるのではないだろうか。
南都七大寺をはじめとする奈良の寺院も多くは官寺か準官寺で、多くが一度衰退している。その中で、強力な後ろ盾がない法隆寺が威勢を留めているのは、早い段階で「聖徳太子信仰の寺」に転じられたからだろう。

【高野山支配を巡る対立と即身仏の誕生】
記録上、日本で最初に即身仏として祀られたのは、高野山検校(だったと思う)の琳賢である。琳賢は保守派の筆頭格として、改革派の覚鑁と対立し、最終的に覚鑁を根来寺へ追いやっている(この後、覚鑁は新義真言宗を興し高野山と袂を分かつ)。
琳賢が即身仏を志した目的や、そのためにどのような修行を行ったのかはわかっていない。しかし、高野山の重鎮であったことを考えると、弘法大師空海が行った入定の再現が動機であった可能性が高いと思われる(覚鑁ら改革派に対して保守派の正統性をアピールしたか)。
琳賢の遺体はミイラ化し(そのために木食行などをしたかもしれない)、当初は金堂に、後に廟を造ってそちらに祀られていた。後鳥羽上皇が高野山行啓時に拝したと伝わるので、遺体が祀られていたのは事実と考えられるが、現存していない。
琳賢以前にもミイラ化した僧侶の記録はあり、中には祀られていたと思しき例もあるが、多くは偶然ミイラ化したとみられ、即身仏を志して積極的に木食行などを試みた例はなく、また遺骸も現存しない。現存する即身仏は新潟県西生寺に祀られる弘智法印が最古で、おおよそ南北朝時代の例である(弥勒下生まで肉体を残すのが目的)。
ちなみに覚鑁も空海に倣って入定しようとしたとも言われるが、死後は火葬されたようである。

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