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中国史人物列伝04 呂蒙

呂蒙は中国・三国時代(厳密には後漢末期)の軍人である。 孫策に取り立てられその部将となった。姉の夫である鄧当もまた孫策に仕えていたが、彼が亡くなると後任となった。 孫策が亡くなると引き続き弟の孫権に仕えた。黄祖との戦いでは先鋒を務め、敵の水軍都督陳就を自ら討ち取る功績を挙げた。
赤壁の戦い後は主に荊州方面の戦役を担い、曹仁との戦いで功績を挙げた。しかし、幼い頃は貧しく、その後は戦役に従事し続けたこともあり、呂蒙は読み書きができなかった。後に孫権から諭され、勉学に励んだ呂蒙は、最終的に儒学者に勝る教養を身に着けたという。
魯粛が周瑜の後任として赴任する際、呂蒙を訪ねたところ、呂蒙は魯粛の質問にすらすら答えたうえ、逆に献策をするほどであった。驚いた魯粛が「呉下の阿蒙に非ず(私が知っている蒙さんではない)」と言うと、呂蒙は「士別れて三日すれば、即ち更に刮目して相待すべし(立派な男は鍛錬を欠かさぬので、三日も合わなければ見違えるほどになっているものさ)」と返したという。私の好きなエピソードである。ちなみに、この故事から進歩のない人のことを「呉下の阿蒙」と言うようになったという。
211年からの、濡須口の戦いを含む一連の戦役でも活躍した。主なものに曹操への対策として濡須塢を築くよう進言したこと、甘寧らを指揮して廬江太守・朱光を破ったことが挙げられる。
益州攻略後の荊州の所有をめぐって孫権と劉備が争うと、魯粛とともに荊州軍事総督の関羽を牽制した。魯粛が死ぬとその後任となり、荊州方面の諸事を引き継いだ。この頃、孫権は関羽に縁談を申し込んだが、関羽に一蹴された。その際、関羽が使者を罵倒したことで孫権との仲は決裂した。関羽が樊城の曹仁を攻めると、呉方面の防備は手薄になった。この時、孫権は関羽に援助を申し出たが、それが遅延したため、関羽は「樊城を落とした後は、今度は孫権を滅ぼしてくれる」と罵った。そのため、孫権と関羽の敵対は決定的になってしまった。呂蒙は病と偽り、関羽を油断させる策を立てた。建業に帰還する際、呂蒙はまだ若輩であった陸遜と面談した。陸遜の才能を認めた呂蒙は孫権に代理として推薦し、容れられた。
関羽の油断を見て取った孫権は本格的に関羽を攻め、虞翻の働きもあって主要な郡県は孫権に服した。呂蒙は関羽軍の兵士の家族を保護するなど善政を敷いたため、関羽軍の士気は喪失した。さらに陸遜が益州への退路を断ったため、孤立した関羽は潘璋の手で捕縛された。
ところが、荊州平定直後に呂蒙は病を発し、同年中に死去した。享年42。孫権は彼を内殿に迎え入れて看病させ、容態を聞くたびに一喜一憂したという。呂蒙は孫権からの贈り物はすべて返還し、葬儀も簡素にするよう遺言した。
後世、関羽が神格化されると、彼を死に追いやったことで呂蒙はすこぶる評判が悪くなってしまったが、彼は孫権の方針に従っただけである。また、孫権との仲を拗れさせた要因はむしろ関羽の側にあるとも言える。

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