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中国史小話集⑨

【残念な英雄・魏延】
中国・三国時代の話である。
蜀漢の魏延は優れた武将であったが、楊儀と反りが合わず、群臣の眼前で剣を突きつけ楊儀を泣かすなど問題行動もあった。魏延は性格にやや難があったようである。
五丈原で対陣中、諸葛亮は病死する。その際、諸葛亮は楊儀に撤退の指揮を執るよう遺言した。魏延はこれに不満を抱き、撤退中の楊儀を襲おうとした。これを察知した楊儀は「魏延が反乱を起こした」と上奏した。一方の魏延も「楊儀が反乱を起こした」と上奏した。ふたつの上奏を前に劉禅は悩んだが、諮問を受けた群臣は皆楊儀の肩を持った。
楊儀が魏延と対峙すると、王平は「丞相(諸葛亮)が亡くなり、その亡骸がまだ冷たくならないというのに、お前たちはなぜこのようなことをするのか」と一喝した。魏延配下の兵たちは、魏延に非があると考え離散してしまった。魏延は身内だけで逃亡を図ったが、馬岱の追跡を受けて斬られた。
こうした経緯から、魏延は蜀地域で非常に嫌われていたという。

【中国人(漢族)の姓名】
中国、というか漢族は一字姓一字名が伝統であったとされる(例えば劉邦は姓が劉、名が邦)。実際は呂不韋のように二字名の人もいたが、西漢(前漢)時代になって二字名が格段に増えた。董仲舒や李広利といった具合である。
王莽が皇位を簒奪すると、「漢族の伝統に反する」として二字名は禁止された。王莽死後もなぜかこの規制は受け継がれ、東漢(後漢)から三国時代にかけて二字名はほぼいない(まったくないわけでもなく、諸葛亮の『出師の表』に郭攸之という人物名が出てくる)。皇甫嵩の子に堅寿という人物がいるが、これは字(あざな)の可能性もある。
東晋時代後期になって、再び二字名が現れ始め(王羲之、諸葛長民など)、唐代あたりからは二字名がどちらかというと主流になるようだ(房玄齢、杜如晦など)。ただし、尉遅敬徳のように諱(いみな)ではなく字で呼ばれるのが通例で二字名のようになっている人もいる。むろん、一字名の人物も数多くいる(李靖、魏徴など)。

【公孫弘】
公孫弘は中国・西漢(前漢)の官僚で、武帝に仕えた。
若い頃は獄吏を勤めていたが、罪があり罷免された。家が貧しかったため、豚を飼って生活していたが、40歳を過ぎてから経書を学び始めた。
武帝が即位して間もない頃、賢良の士として推挙された。この時、公孫弘はすでに60歳であった。匈奴への使者を務めたが、武帝の意に沿わず、病と称して引き籠もった。その後、再び推挙され、試問に対して成績は下位であったが、面接で武帝に気に入られ、博士となった。
公孫弘は、会議では常にふたつの案を提示し、結論は武帝に委ねた。弁論に長け、事務に詳しかったが、非常に慎み深かった。その一方で、性格に裏表があり、仲が悪い者とは表向きうまく付き合いつつ陰で陥れるなどした。董仲舒の左遷が有名である。
丞相に就任すると、公孫弘は丞相府内に客館を設け、賓客を住まわせて意見を募った。しかし、公孫弘が亡くなると館は取り壊され、厩にされてしまった。
80歳で死去した。

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