見出し画像

日本史人物列伝01 堀田正睦

堀田正睦(まさよし)は江戸時代後期の大名・政治家である。佐倉藩5代藩主で、堀田正俊の子孫である。
堀田正時の次男で、父の死後、家督は兄・正愛(まさちか)が継いだが、病弱の上に子が早世していて、後継がない状態であった。兄は1822年から肝臓を患い、2年後には重篤となった。正睦は兄の養子になっていたが、藩政を取り仕切っていた(というより牛耳っていた)老臣・金井右膳らは正睦を嫌い、堀田一族の長老で若年寄の堀田正敦(近江国堅田藩主)の子を藩主に擁立しようとした。しかし、藩内では物頭の渡辺弥一兵衛ら下級武士が金井に反対し、また、正敦が養子を出すことを拒否したため、正睦が藩主に就任した。このあたりの顛末は将軍・徳川家綱没後に弟・綱吉がいながら宮家より将軍を迎えようとした酒井忠清の挙動に似ている。ちなみに、金井が藩政を掌握していたのは、度重なる外国船の接近に対し、幕命で病弱な藩主・正愛に代わって江戸防衛のための準戦時体制を金井が主導していたことによる。正睦は金井を立てつつ時には牽制するなどして藩政を安定させ、金井没後は親政を開始した。

堀田正睦

正睦は蘭学を奨励し、蘭方医・佐藤泰然を招聘して佐倉順天堂を開いた。順天堂大学の前身である。
1829年に奏者番、1834年に寺社奉行、1837年に大坂城代に任じられた。
1841年に老中となり、水野忠邦が主導する天保の改革に参画したが、正睦は当初から忠邦の方針には否定的であり、忠邦の改革は失敗に終わると早くから見抜き1843年に辞表を提出している。正睦の辞任から5日後、忠邦は老中を罷免される。
辞任後、正睦は藩政に力を入れた。安政の大地震では江戸上屋敷にいて負傷しているが、その1週間後に老中首座・阿部正弘の推挙で老中に再任された。この時、老中首座を阿部から譲られ、外国掛老中を兼ねた。実際は阿部が最後まで実権を握っていたが、黒船来航以来の激務で阿部が体調を崩していたことや、正睦が開国派で譜代大名の中では明快な意見を持っていることなどが背景にあるようである。
正睦は元の名を正篤といい、将軍・徳川家定に輿入れした篤姫の名を憚って正睦に改名したという。
1858年、アメリカ総領事のタウンゼント・ハリスが日米修好通商条約の調印を求めると、上洛して孝明天皇から条約調印の勅許を得ようとするが、天皇が強硬な攘夷論者であったため果たせなかった。 同年、家定が病に倒れ、後継問題が持ち上がった。後継候補には紀州藩の慶福(家持)と水戸藩(一橋家養子)の慶喜が推されたが、強硬な攘夷論者であった徳川斉昭と対立していた正睦は心情的に慶福を推していたらしい。しかし、外国関係の打開には慶喜が適していると考え、慶喜支持に回った。
ところが、慶福支持の井伊直弼が大老に就任すると、一橋派排斥の過程で正睦も罷免されてしまった。1859年に隠居するが、これは実質的な蟄居であったという。しかし、井伊は時機を見て正睦の再登用を検討していたとも言われ、安政の大獄では不問に付されている。桜田門外の変後、正睦は朝廷と幕府の双方から命令される形で蟄居処分となったが、これは安政の大獄に対する報復人事で、正睦にとっては気の毒なものであったように思う。
1864年に没した。享年55。 政治的には対立したが、井伊直弼とは仲が良く、阿部正弘と井伊が対立した時は仲を取り持っている。

いいなと思ったら応援しよう!