中国史人物列伝01 黄権
黄権は中国・三国時代の蜀漢の人物である。
元は益州牧・劉璋の配下であった。劉璋が寒中を押さえる張魯に対抗するため、劉備を迎え入れようとしたときにはこれに反対したが、そのために不興を買い左遷された。劉備が益州攻略に乗り出すと、周囲の郡県が劉備に降る中、最後まで死守して成都が陥落するまで降伏しなかった。この時、劉備は黄権を偏将軍に任命しており、黄権の忠義を高く評価したものと思われる。
曹操が漢中攻略に乗り出し、張魯が降伏すると、黄権は劉備に「漢中を失えば益州を失う事になるでしょう」と進言した。219年、劉備は定軍山で夏侯淵を討ち取り漢中を制圧するが、これは黄権の計略に基づいたものであるという。220年、劉備に皇帝即位を上奏した軍神の中に名を連ねている。劉備が即位すると光禄勲に任じられた。
222年、荊州を奪われた劉備は、関羽の仇討と称して呉を攻めようとした。黄権は「わが軍は長江の流れに乗って攻めるのは容易ですが、退却するのは困難です。私が先陣を務めますので、陛下は後からお越しください」と進言したが、劉備は聞き入れなかった。黄権は鎮北将軍に任じられ、魏に対する備えを命じられたが、劉備が夷陵の戦いで大敗すると、黄権は退路を断たれ、やむなく魏へ亡命した。劉備は「黄権が儂を裏切ったのではない。儂が黄権を裏切ったのだ」といい、黄権の家族を咎めなかった。
黄権は曹丕に気に入られ、侍中に任じられ厚遇された。司馬懿は黄権を高く評価し、諸葛亮への手紙で「黄公衡は快男子です。いつも貴殿を褒め称え、口にしない時はありません」と讃えている。後に車騎将軍・儀同三司に昇り、240年に没した。 『蜀記』によると、曹叡が黄権に対し魏・呉・蜀の正統性について尋ねたところ、「天文によって決定すべきです」と答えたといい、このことから魏の臣下になりながら、蜀への忠義も忘れていなかったことがわかる。そうした黄権の意思を汲み取ってか、陳寿は『三国志』で黄権を蜀志に立伝している。
陳寿は黄権を「度量が広く、思慮深かった」と讃えていて、同時代の楊戯も「黄権の思考は鋭く、策略は素晴らしく、軍を率いて敵を追い払い、見事な功績を挙げた」と讃えている。ただ、袁宏が諸葛亮・龐統・蔣琬とともに「蜀の四名臣」としているのは少々褒めすぎではなかろうかと思う(その理由は、黄権が本人の責任ではないとしても蜀臣として生を全うできなかったためである)。