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中国史小話集⑰

【叔孫通】
叔孫通は中国・秦末漢初の儒者である。
秦の二世皇帝の時代、博士として朝廷に仕えていたが、陳勝・呉広の乱が勃発した時、皇帝に「何が起きているのか」と尋ねられ、「群盗が暴動を起こしているのです。すぐ鎮圧できるでしょう」と答えた。事実は反乱であり、すぐ鎮圧できるどころではなかったので、同僚たちは事実を曲げて報告した叔孫通を詰った。叔孫通は「今、私が虎口を命からがら逃れてきたのがわからないのですか」と言い返すと、そのまま辞職して郷里に帰った(二世皇帝は性格に難があり、意に沿わない発言をすると処罰される恐れがあった)。
その後、秦が滅亡し、項羽と劉邦が覇権を巡って争い始めると、叔孫通は劉邦に接近した。劉邦は儒者嫌いであったため、儒者の服ではなく郷里の服を纏って会いに行ったところ、劉邦に喜ばれた。
叔孫通は多くの人を推挙したが、近所に住むならず者ばかりであった。弟子がそれについて不満を漏らすと、叔孫通は「乱世に我々のような軟弱な人間は役に立たない。いずれ我々が必要になるときが来るから、それまで我慢しなさい」と諭した。
劉邦が皇帝に即位すると、礼式を早急に整備する必要があった。劉邦の臣下にはならず者上がりが多く、礼儀作法をわきまえていない者が多かったからである。劉邦はその作業を叔孫通に命じた。叔孫通は宮廷の作法を整備し、秦時代に官吏であり、礼式に精通していた蕭何や張蒼らの協力の下、臣下たちに礼式の教育を施した。これによって叔孫通は高く評価され、彼の弟子たちも役人として取り立てられた。
機転の利く人物であったが、要領が良いため儒者仲間には彼を嫌う者もいた。
 
【淮南王劉安】
劉安は中国・西漢(前漢)の宗室の一人で、劉邦の皇子・劉長の子である。 父は淮南王に封じられていたが、柴奇の反乱に連座して流刑となり、食を絶って護送中に死んだ。しかし、子の劉安たちは厚遇され、列侯となった後、劉安は父と同じ淮南王になった。
劉安は父の一件で皇室に恨みがあったか、景帝の時代に呉王劉濞が反乱を起こした(呉楚七国の乱)際は同調しようとしたが阻止された。
武帝の代になると、武帝の匈奴討伐に反対して徴兵に消極的だったため、所領を削減され、より恨みを強めるようになった。劉安は家臣の伍被と反乱の計画を練ったが、伍被の密告で露見し、命を絶った。
劉安は学問好きで多くの食客を抱え、彼らを使って諸説を収集して纏めていた。一部が現存しており、これが『淮南子』である。
劉安は後世、どういうわけか豆腐の発明者にされている。古くは宋代に朱熹が詩に詠んでおり、明代には李時珍が著書『本草綱目』の中で劉安が豆腐を発明したと述べている。

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