中国史人物列伝05 荀彧
荀彧は中国・東漢(後漢)末期の政治家で、曹操の参謀を務めたことで知られる。
荀子の子孫とされる名門・潁川荀氏の出身で、若い頃から才名をうたわれ「王佐の才」と称揚された。
189年、董卓が実権を握ると召し出されたが、乱を予感した荀彧は官職を捨てて故郷に帰った。その際、古老たちに乱の到来を予言し避難するよう勧めたが受け入れられず、冀州牧・韓馥の招きに応じるかたちで仕方なく一族だけを連れて避難した。その後、李傕らの軍勢によって潁川は甚大な被害が出たという。荀彧が冀州についた頃、袁紹が韓馥を脅して冀州を乗っ取っていた。同郷の辛評や郭図は袁紹に仕えたが、荀彧は「袁紹は大業を成すことのできない人物」だと判断して曹操の元を訪れた。曹操は「我が子房(劉邦に仕えた軍師・張良のこと)を得た」と言って喜び、荀彧を重用した。
曹操が徐州の陶謙を攻めた際は、同僚の程昱とともに留守を預かっていたが、その間に曹操の盟友であったはずの陳留太守・張邈が呂布を引き込んで反旗を翻した。多くの城が呂布に呼応する中、荀彧は夏侯惇を助けて事態の収拾に努め、曹操に高く評価された。
196年、献帝が長安を脱出し、洛陽に帰還すると、荀彧は曹操に献帝を迎え入れるよう説いた。曹操は大将軍・荀彧は侍中・尚書令に任じられ、国政に携わるようになった。曹操は出征中でも、軍事と国事に関する全てのことを荀彧に相談したという。
あるとき、曹操が荀彧に「君に代わって儂のために策を立てられるのは誰か?」と聞くと、荀彧は甥の荀攸と同郷の鍾繇を推した。曹操は荀彧が多忙であると彼らを頼りにしたという。
荀彧は人物の鑑識に優れ、多くの人材を推挙した。郭嘉・陳羣・辛毗・司馬懿・王朗・華歆など、曹操の覇業を支え、魏建国後は屋台骨として国家を支えた有能な人材が多く、彼の慧眼がうかがえる。
曹操が袁紹と決着をつけようとした際は、孔融が袁紹陣営の人材の豊富さを理由に反対するのに対して、袁紹陣営の人物それぞれの弱点を挙げて論難した。曹操は荀彧の意見を入れ、袁紹との決戦に臨んだ。
208年、赤壁の戦いで孫権・劉備に破れ、天下統一は果たせなくなったものの、中原の平定に成功した曹操の優位はゆるぎないものになっていた。こうした情勢を踏まえ、董昭ら有力な重臣が曹操を国公に叙するよう働きかける準備を進めていた。儒者であった荀彧は、その立場もあり、「公(曹操)が義兵を起こしたのは、本来朝廷を救い、 国家を安定させる為であり、真心からの忠誠を保持し、偽りのない謙譲さを守り通してきたのだ、 君子は人を愛する場合徳義による(利益を用いない)ものだ、そのようなことをするのは宜しくない」と反対した。しかし、曹操は次第に叙爵を受ける気になっていき、その過程で荀彧との間に亀裂が生まれていた。
212年、孫権討伐に従軍した際に病を発し、寿春に逗留していたが、急死してしまった。享年50。この死には謎が多く、曹操との関係に悩んだ末の自殺とも言われている。
荀彧の功績は極めて大きかったが、荀攸や鍾繇ら多くの者が魏の功臣として曹操の廟庭に祭られる中、荀彧が祭られることはなかった。『三国志』に注釈を加えた裴松之はこのことについて、荀彧が晩年に曹操へ異議を唱え、魏の官位を得ることなく亡くなったからと推測している。
荀彧が曹操の叙爵に反対していたことから、荀彧は曹操の幕僚を務めながらも漢王朝の再興を志していたという解釈があり、『後漢書』を編纂した范曄は、『三国志』に伝があることを承知の上で荀彧を立伝した。
荀彧は生前から高く評価されており、彼をけなしたのは禰衡ぐらいである。ただ、時代が下がると蜀漢正統論の流布もあってか、曹操を奸臣とする評価が高まり、唐の杜牧のように荀彧を非難する人物も現れている。しかし、これらは荀彧の行動を批判するもので、彼の才能には言及されていないことが多い。
私は曹操の覇業を支えたその能力は高く評価するが、彼はあくまで曹操の幕僚であって漢臣ではないと思う。