
中国史人物列伝08 王祥
王祥は中国の政治家で、後漢末から西晋初期にかけて生きた人物である。
王羲之らを輩出した名門・琅邪王氏の一族。親孝行で知られた。
伯父の王叡は荊州刺史であったが、後漢末の動乱期に孫堅に殺害された。その際、王祥は継母や弟と共に廬江へ避難し、30年に亘って仕官しなかった。
その後、呂虔に招聘されたが、王祥はすでに60歳で、当初は受けようとしなかったものの、弟が仕官を勧めたので受けることにした。王祥は呂虔の別駕となると、徐州の統治を任され、州内をよく治めた。呂虔は「持つと三公の地位に昇れる」と言われた宝剣を持っていたが、「持つべき人が持たないと、この剣は害を成すかもしれない」と言って、固辞する王祥に強いて与えたという。

王祥はその後、昇進を重ねて大司農や司隷校尉、太常を歴任した。曹髦が司馬昭排斥を企てて逆に殺害されると、王祥は号泣慟哭して「私めの無力のせいでございます」と言ったため、周囲は皆恥じ入ったという。
しばらくして司空に、次いで太尉に至り、ついに三公に昇った。
司馬昭が晋王に封じられると、王祥は荀顗(じゅんぎ:荀彧の子)と謁見に赴いた。荀顗は「相国・晋王は大変貴い身分なので、拝礼を行うべきです」と言って拝礼したが、王祥は「相国は確かに貴い身分だが、宰相であることには変わりなく、我らと一階級しか違わぬ。我らと晋王はともに陛下(曹奐)の宰相であり、その身で拝礼など行えば魏の名望を失い、晋王の徳を損なうことになる。私にはできぬ」と言って会釈だけした。司馬昭は「今日始めて、貴方が私のことを重く考えていることがわかった」と言った。
司馬炎が禅譲を受け晋が建国されると、王祥は公の爵位を得て太保(皇帝の傅役)となった。王祥はたびたび老年を理由に地位を降りようとし、司馬炎はその都度慰留していたが、王祥が強いて願い出たため致仕を許した。地位は三公より上位とされ、俸禄もそのまま支給された。
85歳で薨去した。その際、弟の王覧に「お前の子孫はきっと興隆するから、この剣が相応しいであろう」と言い、呂虔から授かった剣を与えた。この王覧の子孫が、晋の再興(東晋の建国)に尽力した王導である。
王祥の葬儀に駆けつけた者は、朝廷の大臣ではなく親族や故吏ばかりであった。同族の王戎(竹林七賢の一人)は「太保は清らかであったと言えよう」と王祥を讃えた。
王祥の孝行心を伝える、次のような逸話がある。
継母が生魚を食べたがった時、当時寒くて川が凍っていたので、王祥は衣を脱ぎ氷を割って魚を獲ろうとした。すると、氷が自然に溶け鯉が二匹跳ね出て来たので、それを持ち帰った。また継母が黄雀の炙りを食べたいと思った時は、黄雀数十羽が垂れ幕の内側に入ってきた。郷里の人々はそれらに驚き、王祥の孝心がもたらしたのだと思ったという。