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中国史人物列伝07 蔡京

蔡京は中国・北宋末の政治家で、僕が知る中で最も奸臣だと思う人物である。 行政官僚としては有能であったが、権力欲の強い人物で、主義主張に節操がなかったといわれている。
1070年に科挙に及第して進士となったが、当初は弟・蔡卞のほうが先に出世したらしい。そのため蔡卞が蔡京に官職を譲るよう打診したことがあり、朝廷では美事とされたという。 神宗の治世の末に、蔡京は首都開封府の知府(長官)になっていた。神宗の崩御後、太皇太后の宣仁太后が政権を担うと、彼女に信頼されていた旧法派の主級・司馬光は、募役法の廃止と差役法の復活を図り、これを5日間で実行するように命令した。差役法は司馬光の想定と異なり、当時すでに現実から乖離したものになっていた。それにあまりにも短い期限のせいで現場は大いに混乱したが、蔡京は首都という最もややこしいところでそれを成功させ、司馬光を大いに感動させた。しかし、実際の蔡京は新法派と旧法派の間を行き来し、政権の異動があるたびに実権を握った側についたため、旧法派の中でも急進派だった劉安世らに攻撃され、下野せざるを得なくなった。
哲宗が親政を始めると再び新法派が実権を握ったが、当時、政権の中枢にいた章惇や曾布は蔡京を信用しておらず、目立った活躍はできなかった。しかし、蔡京は宦官と結託するなどして、返り咲くための糸口を探していたといわれる。この頃、弟の蔡卞との仲は非常に険悪になっていて、妻同士もいがみ合うほどだったという。
徽宗の代になると、当初は神宗の皇后であった向太后の指導の下に建中靖国をスローガンとして、新法派と旧法派の融和が目指されていた。徽宗は新旧両派より韓忠彦と曾布を宰相として迎え、そうした中で蔡京も政権の中枢に返り咲くことができたが、向太后に接近し信任を得る姿を見た両者は蔡京を警戒し、蔡京を太原府の長官に異動させるよう徽宗に進言していた(向太后のとりなしで実現しなかった)。ただ、徽宗は一時、蔡京を警戒していたことがあり、一度罷免されているが、徽宗の寵臣であった宦官・童貫のとりなしや、韓忠彦・曾布の政治に不満を感じた徽宗の方針の変化などで蔡京は中央に復帰した。
その後、延べ16年間、宰相の地位にあった。 蔡京は反対する者は新旧両党いずれを問わず放逐し、それらを一括りに旧法派と見做し「奸党」と貶めた。放逐された旧法党人は三百余人におよび、またその子孫も禁錮処分として科挙の受験資格を奪った。そして、「奸党」の人名一覧として「元祐朋党碑(元祐党石碑)」を建立し、「奸党」一味のブラックリストとして天下に知らしめた。しかし、この石碑には、本来明らかに新法派に属する章惇や安燾といった政治家の名まで含まれており、旧法弾圧に名を借りた蔡京の権力掌握策の実体を明らかにしている。私が蔡京を「奸臣中の奸臣」と評するのはこのためである。
徽宗朝の末期には実験を息子・蔡攸に譲った形になっていたが、世間的には蔡京が実権を握っていることになっていたようである。
この頃、新興国家の金と結んだ北宋は念願だった燕雲十六州の奪還に成功したが、背信行為を重ねたことで金の怒りを買い、滅ぼされた(靖康の変)。その直前、徽宗は譲位したが、後を継いだ欽宗は蔡京を嫌っており、また金の襲来で沸き立つ世論を押さえるために、蔡京と対立して下野していた李綱を召喚して善後策を練った。結果、蔡京は童貫らとともに罪に落とされ、「六賊」と呼ばれた彼らの頭目とされた。彼らは流刑となったが、80歳になっていた蔡京は護送中に死んだ。その後、彼らは改めて死刑を宣告され処刑されたため、人々は蔡京が罪に落とされたとはいえ天寿を全うしたことを悔しがったという。

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