見出し画像

日本史人物列伝02 良源

良源は平安時代中期の僧侶で、第18代天台座主となり、比叡山延暦寺を中興したとして崇められている。
近江国浅井郡虎姫(現長浜市)の出身で、12歳、または15歳で仏門に入った。地方豪族の出であり、また法門としては最澄の直系ではなかったが、興福寺の義昭との法論で彼を論破して注目を浴びた。
その後、天慶年間(938年~947年)に藤原忠平の目に留まり、その子・師輔と親しく交友した。この頃、師輔の援助も受けて、良源は当時廃れていた横川を再興し、自らの拠点とした。住房の定心房の名残が元三大師堂(四季講堂)である。
953年、火災で東塔が被害を受けると、その復興に尽力した。師輔の娘で村上天皇の中宮であった安子の安産祈願の祈祷を行い、憲平親王(冷泉天皇)が産まれるとその護持僧に任じられた。この頃、師・覚恵から阿闍梨号を譲られている。
958年、師輔の子である尋禅を後継者にする予定で弟子にしている。この頃から功利的な行動が目立つようになったといい、弟子の一人であった増賀は良源の元を去っている。

慈恵大師(良源)坐像

966年、天台座主に就任した。しかし、同年中に母を亡くし、また復興途上であったと思われる東塔で再び火災が起きるなど、不運が続いた。
970年には寺内の規律を定めた「二十六ヶ条起請」を公布し、僧兵の乱暴を抑えることにも意を配った。
972年に横川の復興が成り、以後、比叡山は東塔・西塔・横川が分立する。同年、病に罹り遺言状をしたためるほどであったが、無事回復している。
974年、興福寺の末寺であった祇園感神院(現八坂神社)を延暦寺の末寺とした。
981年、大僧正に任じられた。これは行基以来の快挙であった。この時、寛朝が僧正に、尋禅が権僧正に任じられ、僧正が3人いることになったのも異例だったという。
この頃、円仁派が代々座主を務めていた法性寺の座主に円珍派の余慶が就任し、それに反発した円仁派の僧が関白藤原頼忠の屋敷を囲むという恣意行動に出た。これが記録に残る比叡山衆徒の恣意行動の最初という。
985年、近江坂本にて没した。墓所は比叡山横川にある定心房の北、華芳ヶ尾に造られ御廟(みみょう)と呼ばれた。
良源は「仏道修行の徒は無為に日を送ってはならない」「公の法会や仏事において名誉を求めるな」などと自らの言動と一致しないことを言っていたが、自らの行いは仏法を広めるためであるとしていたらしい。
朝廷から「慈恵」の諡号を得たが、大師号の宣下は受けていない。しかし、相応や光定、義真ら歴代の重鎮が大師号を私称するかたちで祀られていたため、それに倣って慈恵大師と呼ばれるようになった。
正月(1月)3日に遷化したため「元三大師」と呼ばれる。

いいなと思ったら応援しよう!