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中国史人物列伝06 鄧艾

鄧艾は中国・三国時代の魏の軍人である。
若いときから知略と強い意志を兼ね備えていた。幼くして父を亡くし、曹操が荊州を征した時に故郷から連行され、汝南の屯田民とされた。12歳前後で県から召し出され、同い年の石苞とともに役人となったが、吃音のせいで周りから疎ましがられたため、なかなか出世できなかった。苦学して典農の属官である稲田守叢草吏となったが、この頃、高い山や広い沼地などを見かけると、いつも軍営を設置するのに適当な場所を探そうと測量を行ない、それを地図に書き記していた。
ある時、使者として上京した際、司馬懿と面会して才能を高く評価された。司馬懿は鄧艾を属官に任命し、次いで尚書郎に昇進させた。
当時、田地を拡大して穀物を蓄え、賊国(呉)を滅ぼすための基礎計画が練られていた。鄧艾は使者として寿春周辺を視察し、一帯の田地が良質にもかかわらず水不足で充分な収穫が得られていないことに気づき、灌漑用水も兼ねた運河を整備する必要性を司馬懿に強く説き、『済河論』を著して、その趣旨を皆に説明した。また、各地で屯田を行うことを進言し、司馬懿はそれをすべて実行した。
241年に運河が完成し、船団を容易に淮河付近へ送ることができるようになった。王凌のクーデター計画が未遂に終わったのも、この運河により速やかに兵団を送ることができたためという。
249年、姜維が雍州へ侵攻してくると、郭淮に従ってその侵攻を防いだ。鄧艾は姜維の計略を巧みに見抜いたため、姜維の北伐は鄧艾に阻まれ続けることになった。
この頃、并州で右賢王劉豹が五部匈奴の一部族として大きな勢力を持っていた。これを気にした鄧艾は、司馬師に匈奴の勢力を弱めるよう進言し、司馬師はその献策を受け入れた。
各地の太守を務めていた頃、鄧艾は荒地の開拓に尽力した。
兗州刺史に昇進した際、鄧艾は「国家の急務はただ農事と軍事であります。兵が強ければ戦に勝ちますが、国富の源となる農事こそ勝利の基本であります」と上奏し、農耕の重要性を強く説いた。
263年、大将軍司馬昭は蜀征伐の軍を興し、自ら陣頭指揮を執った。鄧艾は隴右一帯の諸軍を指揮して雍州刺史の諸葛緒らに姜維の対策を命じた。しかし、諸葛緒は姜維の策にかかって退却を許し、剣閣に籠城されてしまった。剣閣が容易に陥落しないとみた鄧艾は、上奏して間道を通り、兵糧輸送に行き詰まって餓死の危機に瀕しながらも江油を急襲して守将の馬邈を降伏させた。
知らせを聞いた蜀の衛将軍・諸葛瞻は涪から綿竹へ引き返し、陣を並べて鄧艾を待ちかまえた。鄧艾は息子の鄧忠に攻撃させたが、鄧忠は敗北した。「敵軍は強大であり打ち破ることはできない」と言う鄧忠を叱責し、一度は斬ろうとしたが、思い直した鄧艾はもう一度鄧忠を出撃させ、鄧忠は死に物狂いで戦って諸葛瞻を敗死させた。このとき蜀軍の主力は剣閣に集中していたため、成都の守備は手薄で、当該が成都に迫っていることを知った劉禅は印綬を差し出して降伏した。
鄧艾は略奪をせず、降伏者を元の仕事に復帰させたので、蜀の民に称えられた。しかし、魏朝廷の許可を得ず独断で人事を行い、これが結果的に鄧艾が身を亡ぼすきっかけとなった。
鄧艾はその後も成都に駐屯し、勢いのままに呉を征伐する計画を立てた。しかし、鍾会が「鄧艾の行動は反逆行為に当たる」と糾弾し、胡烈らがこれに同調したため、鄧艾は反逆者として捕らえられ、送還されることになった。その後、鍾会は姜維とともに(姜維に利用されるかたちで)クーデターを起こしたが、失敗して殺された。そのため、鄧艾配下であった将兵たちは護送中の鄧艾を追いかけて救い出した。このことを知った衛瓘は、自分が鍾会の命を受けて鄧艾を逮捕したことで報復されることを恐れ、鄧艾に恨みを持っていた田続を唆して鄧艾父子を殺害させた(この話は『漢晋春秋』による。『三国志』鍾会伝では田続は鍾会の部将であったと記されている)。
鄧艾が罪に落とされたことで、親族も連座して処罰された。子は処刑され、妻と孫は西域へ流罪となった。しかし、司馬炎は「鄧艾は功績を誇り節義を失ったため、大罪に陥った」が、情状酌量の余地はあるとして妻と孫の帰還を許し、後継者を絶やすことの無いように命じた。その2年後、段灼の上奏により名誉が回復された。
陳寿は鄧艾を「強い意志力で功績を打ち立てた。しかし災いを防ぐ配慮に欠けていた」と評している。
一農政官から身を挙げた鄧艾は多くの人々に慕われ、彼の死後長きに亘って多くの鄧艾廟が作られ、一部が現存している。また、現在でも吃音の人を励ます例として、鄧艾の立志伝が引き合いに出されることがあり、『三国志演義』の影響で悪役視されることが多い魏の人士の中では比較的民間で厚遇されているといえる。
無類の豚足好きだったと伝えられている。

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