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「蝉蛻(せんぜい)」という言葉がある。セミの脱け殻のことで、転じて悟りの境地に至ることを指す。中国では道教に尸解仙というものがある。これは死後、魂だけが抜け出して神仙となるというもので、仏教僧の場合も同様と考えられたようだ。 人には魂魄がある。ややこしいので、ここでは魂を霊(タマシイ)、魄を肉体としておくが、死というものはタマシイが肉体から出てゆくことと考えられていた。タマシイの行く先については省略するが、死んでしまうと、肉体は上記の蝉蛻=脱け殻となる。
山中他界観というものがある。山中に他界=死者の住まう空間があると想定するものだ。学術的な源流は、おそらく柳田國男の『山宮考』だろう。その後、民俗学者の間では日本古来の他界観の一つとして定着しているようである。実際の山中他界観の例としては、東北地方の端山信仰や、伊勢朝熊山麓の「ダケ参り」、立山の地獄伝承などが挙げられる。
本腰を入れて調べたわけではないので、誤っているかもしれないが、女人禁制について思うところを書いてみる。 女人禁制について、女性の血の穢れが云々というのは後付の理由で、根本的に「異性の存在が修行の妨げになる」のが理由だったと思われる。国分寺は僧寺と尼寺に分かれており、キリスト教の修道院も男女分かれている。高野山の場合、参道それぞれに女人堂があり、修行の場となる壇上伽藍などへの女性の立ち入りは禁止されていた。同様の措置は全国の霊山でもある。その代わりというべきか、女人高野、女人山
妖怪と聞くと何を思い浮かべるだろうか。おそらく世代を問わず『ゲゲゲの鬼太郎』を思い浮かべる人が多いと思うが、妖怪の捉え方は時代によって変化している。その変遷は『ゲゲゲの鬼太郎』内部にも表れている。 少し前の『妖怪ウォッチ』ブームから、妖怪のキャラクター化に拍車がかかっているようだ。元々、マンガやライトノベルを中心に、2000年代から妖怪が「敵対するもの」から「共存するもの」に変化しつつあり、その中で主に「萌えキャラ化」というかたちで妖怪のキャラクター化が進んでいたが、『妖怪ウ