シェア
関裕二氏の本に書いてあったように思うが、中臣鎌足と百済王子豊璋を同一人物とする説があるらしい。関氏のオリジナル説か、他に提唱者がいるかはわからないが、学界発の学説ではなさそうだ。 その根拠は「大織冠を得た人物が記録上豊璋と中臣鎌足しかいない」「豊璋が百済に戻って戦っている間、中臣鎌足の記述が『日本書紀』に見られない」の2点。白村江の戦いで百済滅亡が決定的になると、豊璋は日本に戻り、再び中臣鎌足として国政に携わったというのだ。
劉拠は西漢(前漢)の武帝の長男で、皇太子に立てられていた。 晩年、武帝は江充という人物を寵愛し、監察官の地位に就かせていた。江充は皇族であっても恐れず弾劾し、劉拠も弾劾したため、劉拠は江充と対立することになった。 この頃、丞相・公孫賀の子の敬声が、横領が発覚し捕らえられた。公孫賀は、大侠客の朱安世を捕らえて子の罪を贖おうとしたが、朱安世は公孫敬声が武帝の娘と密通していること、離宮への道に「まじもの」を埋めて武帝を呪詛していることを告発した。公孫賀は投獄され獄死した。