コントロール不可能性を/と生きる〜『ウルトラマンブレーザー THE MOVIE 大怪獣首都激突』〜
1.「子どもの映画」としての『大怪獣首都激突』
『ウルトラマンブレーザー THE MOVIE 大怪獣首都激突』は、タイトル通りに怪獣たちが首都で暴れ回る映画であるだけでなく、その中心に「子ども」がいる映画であった。
この映画の物語の中心になるのは、先進化学企業・ネクロマス社とその社長のマブセ、そしてその子どものユウキだ。マブセの妻、つまりユウキの母は早くして亡くなってしまい、それ以降マブセは不老不死をもたらす物質「ダムドキシン」の研究に没頭。しかしそれによってユウキは放ったらかしにされ、父への不満を募らせていた。その結果、防衛隊のシステムをハッキングしてまで父を脅迫し、ダムドキシンが生み出した怪獣ゴンギルガンと一体化、「汚い大人」の象徴である国会議事堂を破壊しようとする。
このように『大怪獣首都激突』の物語の中心にいるのはユウキという1人の子どもである。しかしそんなユウキと対比されるように描かれるのが、ウルトラマンブレーザー/ヒルマ ゲントの息子、ジュンである。
まず物語冒頭、母親のサトコと連絡が取れないことを不安に思ったジュンはゲントに電話するが、怪獣出現の対応中で手が離せないゲントは「ジュンが頼りだ」と諭す。
次に中盤、家に帰ってきたサトコに、ジュンは不安と自分の気持ちをぶつける。どこか身体の具合が悪いなら言ってほしい、お父さんがいないときは僕がお母さんを守るから、と。それを聞いたサトコは、ジュンに事の真相を伝える。
そして終盤、サトコと共にテレビでブレーザーとゴンギルガンの戦いを見守るジュンの祈りが、再びブレーザー光線を発動させ、ブレーザーたちに勝利をもたらした。戦いの後、ヒルマ家で行われた祝勝会でSKaRDの面々がジュンをしっかりしていると褒めると、ジュンは「お兄ちゃんになるから」と明かす。サトコが隠していたのは第二子の妊娠だったのだ。それを聞いたゲントの嬉し涙で『大怪獣首都激突』は締めくくられる。このように、『大怪獣首都激突』とは中心に「子ども」がいる映画なのだ。
2.コントロールする「私」、コントロール不可能な「私」
寂しさを募らせ、それを暴走させて怪獣にまで至ったユウキと、寂しさを抑え、兄として成長していくジュン。『大怪獣首都激突』では2つの「子ども」像が描かれているが、それを分けるのは自己の感情を抑える、つまり自分をコントロールすることができているかどうか、である。
そもそも、私たちの社会とは自己の内面をコントロールすることが求められる場所だ。社会学者の奥村隆は、いわゆる「自己啓発セミナー」に関する雑誌記事の分析の中から、人格を破壊するようなセミナーの「過剰な効果」に対する批判と、人格の変化が長続きしない「過少な効果」に対する批判の双方が存在することを指摘する。奥村は、そもそも私たちは、自分自身をコントロールする力としての「私」と、そこからなお溢れ出るコントロール不可能なものとしての「私」というふたつの極を往復することで「私」を感じていると述べる。そして、「市民的な」無関心で結びつく社会で「礼儀正しい」とされるふるまいは、そうしたコントロール不可能なものを抑えることであるとする。そして、そこで抑えられたものの行き場として自己の「内面」があると述べる。しかし必ずしもそれは自己の「内面」に留まる必要はなく、例えば「恋人」や「友人」、そして「家族」といった「私秘空間」に留まり、「公共空間」に漏れ出さなければよいのだという。こうして、コントロール不可能なものを「私秘空間」に抑えこみ、「公共空間」に溢れ出ないようにすることで、「市民社会」が全体として存立するのだという(奥村 2024:196-235)。
奥村の議論はここからさらに展開されるが、ここでは措く。肝心なことは、「私」とは自分自身をコントロールする力という極と、そこからなお溢れ出るコントロール不可能なものという極があり、後者はこの社会では自己の内面や家族といった私秘的な(つまりプライベートな)空間に抑えることが求められるということだ。
本作のゴンギルガンのように、人間の感情の暴走によって生まれたという設定の怪獣は少なくないが、それらは言わばこの「コントロール不可能なものとしての『私』」の表象だ。そしてそれらはヒーローによって倒され、あるいは生み出した人間が諭され、自分のコントロールを取り戻すことで消えていく。
ユウキは正に、コントロール不可能なものとしての自己に振り回され、怪獣ゴンギルガンとなった。そしてゲントに救出され、父と対話することで和解する。ユウキという子ども一人では抱えきれないほどに拡大した寂しさやコンプレックスがコントロールを失い、怪獣を生み出した。しかしそれを父に――つまり「私秘空間」にいる家族にぶつけ、対話し、和解することで、それは収まる場所を見つけることができた。
一方、ジュンもユウキと同様に寂しさを募らせてはいたが、それを暴走させることはない。元々、テレビシリーズ第15話「朝と夜の間に」で、ジュンは忙しい両親に気を遣うほど大人びた――言い換えれば、子どもらしくない性格であることが描写されていた。
本作でも、彼は母の異変を察知し混乱するが、ゲントに電話で諭されると落ち着きを取り戻す。そして事の真相を知った後も、SKaRDの面々が驚くほどしっかりした態度を見せ、「今度お兄ちゃんになるから」と言ってみせる。寂しさが溢れるどころか、混乱をコントロールして力にし、母やまだ見ぬ弟を気遣ってみせる。
私はこのジュンの態度の背後に、2つの局面を見出す。1つは「公共空間」の「私秘空間」への浸食、そしてもう1つはそれによる「私秘空間」の強化である。
まず1つ目、「公共空間」の「私秘空間」への浸食というのは、ジュンの父であるゲントの多忙さだ。第10話や先に挙げた第15話など、ゲントが多忙なためになかなか家族の時間を取れないことはテレビシリーズで度々描写されてきた。ゲントの職務という「公共空間」は、家族という「私秘空間」を引き替えにしていると言える。そしてそれゆえに、ジュンはゲント達に気を遣い、彼らの考えを先回りするような、「礼儀正しい」子どもになっている。ゲントを通して、あるいはゲントが不在にしているその空白を通じて、ジュンは家族の中にも「公共空間」を――自分は自己をコントロールできる存在であると、他者に示さなければならない領域を見出し、そのように振る舞っている。
しかし、この映画でジュンが見せる態度は、そのような「礼儀正しさ」とはまた別のものだ。そしてそれこそが第2の局面――「私秘空間」の強化の現われである。
ジュンは母の異変を察知し、かつ父も仕事から離れられないことを知ると、自分から母に寄り添おうとする。不在にしている父に代わって、自分が母を守るのだと。「私秘空間」に空いた穴を、自らが埋めるように。
そしてこれは、「公共空間」で求められるような、「礼儀正しい」気遣いではない。つまり自分の中の欲求をコントロールし、抑制し、他者への配慮を見せる「礼儀正しさ」ではない。自分の中から生まれる「守りたい」という欲求――体調が思わしくない母、そして生まれてくる新しい命を守りたい、彼らの力になりたいと思う心が、自然に取らせる行動である。つまりそれは、自己の抑制とは反対に、自己の表出なのだ。
そしてそれは、実は「公共空間」の浸食を媒介にすることで、初めて可能になる。ジュンにとって、父や母への気遣いというのはもはや自然なことなのだろう。それが「大人びた」――つまり子どもらしくないように見えるのは、私たちは子どもとは周囲を気遣わない/気遣えないものだと考えているからではないか。だがジュンは(それが幸か不幸かにかかわらず)周囲への気遣いができる。つまり周囲の存在へと目を向けることができる。だからこそ、周りの人間が弱っているときに、自然にその相手を心配することができる。周囲の存在との関わりの中で、自己を保ち、かつ表出することができているのだ。自己をコントロールする/コントロール不可能という2極を超え、コントロールして表出すること――それは自己を暴走させることなく、自分として生きるためのものであり、それを身につけたことで、ジュンは一つ成長したのだと思う。
3.正解ではない今を生きる~生き抜く者に祝福を
もちろん、ジュンがそれで本当に幸せかどうかはわからない。兄として常に気遣いを求められるというのは、子どもにとってはなかなか辛いことだ。私自身にも年の離れた弟がいるため、そうした環境で生きることが良いことばかりではない、という考え方もわかる。しかし一方で、それが悪いことばかりだとも思っていない。そして人生とは、正にそうした不完全な、どっちつかずの環境を生きるようなものではないかと思うのだ。
以前、私は『ウルトラマンブレーザー』をコミュニケーションという視点から見た記事を書いたが、『ブレーザー』でのコミュニケーションは、不安定で、未知数で、それでも可能性を残すものばかりだった。そしてそれこそ、人間のコミュニケーションの本質でもある。
ユウキやジュンを取り巻く環境もまた同じだ。良いところもあれば、悪いところもある。自己を抑制し、他者への気遣いが求められる状況で、子どもとしてどう生きていくか。そしてマブセやゲントといった親たちは、その子どもたちにどう向き合っていくか。そこに完全な正解はおそらくない。しかしジュンや、そしておそらくユウキも、その中で成長し、大人になっていく。そしてそれこそが子どもの現実なのかもしれない――ユウキのように自己を暴走させ、あるいはジュンのように早熟しながら、彼らは成長していくし、何よりいま生きている。正解や理想像ではない、そうした子どもの生きている姿を、『大怪獣首都激突』は描いていたのだと、私は思う。
参考文献
奥村隆,2024『他者といる技法 ─コミュニケーションの社会学』筑摩書房.