第27回: 消費行動? 流通構造? (Apr.2019)
このところ当地Bengaluruは確実かつ急速に庶民の消費が立ち上がっている感がある。モールを訪れる層は未だ限定的とはいえ、日本の100円ショップ風の生活雑貨店が目立って増えている。化粧品・アクセサリー、インテリア小物、キッチン・トイレタリー・バス用品、文具・おもちゃといった商品が100円ショップよりも割高な値札をつけて並ぶ。これまで市中で見かけることは少なかった、なくても困らないけどあれば便利、ちょっと嬉しい商品が流通するようになったのは大きな変化だ。そんな中、時に正しく時に怪しい日本語がただの紋様として残る商品も見かけるが、事業者としての日本の影は相変わらず薄い。
街角の数畳の店舗であらゆる日用品を扱うKiranaが小売の9割を担うインド、長らく議論されてきた外資規制が緩和されてもなお、日常の買い物風景は変わっていない。何をどう謳って財布を開かせ、どうやって家庭に入り込むか、成功の方程式はまだ確立していない。
かつて日本の台所には必ずある商品をインドに紹介した。ざっと調べると、類似品はあっても用途は異なり、日本が推奨したい用途はその弊害から寧ろ使うべきでない、との否定派が多数だった。ここまで調べたところで結論を急ぐと、“市場は未熟で時期尚早。インドが日本のように成熟するまで待つべし” となりがちだが、その手の判断をした企業・製品が数年後 “時機を見極めた上で参入” して成功した例を知らない。インド家庭の台所に上がり込んで観察し、実験を重ねて出した案を、また他の家庭に持ち込んで検証したのが当時の経験だが、“世界で最もダイナミックな市場” は外野としての調査では理解しきれない。自らプレイヤーとなり創造的な仕掛けをしない限り、モノを流せば自然に売れるチャネル、などはない。
そもそも、店頭でいつでも仕様も品質も一様なものが手に入るのはファストフードと自動車・二輪くらい。メディアで広告されている新製品を店頭で探すのも一苦労だ。良くも悪くも服や家具はオーダーメイドが基本だし、家電も含めた日用品は欲しい時に目についた物を買うのみ。口コミを見て店頭で実物を確認し、価格相場を調べて安値を見極めて、という優雅な買い物はできない。欲しいと思ったら即断即決、翌日には店頭から消え二度と棚には戻らない。
インドは “アウトレットの墓場” だと話している。元来、正規の流通に載らない商品であるアウトレットの、更にその売れ残りが世界中から搔き集められて最終消費される地、という意味だ。有象無象一緒くたに “トンあたりいくら” で世界各地で買われた在庫がコンテナに詰めて送られてくる。日常の買い物からして “宝探し” が常の当地、色もサイズも数量も揃わなくても引き取り手はいくらでもいる。保証書が付いていたとしてもサービス体制がないことは誰もが知っていて、不具合があれば街角の職人に頼めば何でも何とかしてくれる。それでも気に入らなければ返品・返金してなかったことにする、のが小売と消費者の共通認識だ。棚になければ在庫なし、メニューにあっても今日はない、が当たり前、安定供給や機会損失の議論とはほど遠い。
先日、ちょっとした事故で車のガラスが割れた。ちょうど連休前でディーラーに連絡すると部品を取り寄せ修理完了まで少なくとも4日かかるという。流石にそれでは困ると街のガラス屋に持ち込んだ。旧年式故、こちらでも店内に在庫があったわけではない。が、車両を持ち込んでモデルと年式を確認するや否や3人がかりで電話をかけまくる。待つこと暫し、30分後には折り返しの電話でパーツが見つかったと言い、更に数十分でリキシャーが配達に訪れる。そこから施工して清掃まで、2時間足らずで作業完了、お昼時の事故から半日、その日の内に車は元通りになった。使われた補修部品は正規品、支払った価格はディーラー見積もりの半額。ブランドショップと街角の職人、いざという時いずれが頼りになるか、身をもって体験する機会となった。
消費者の購買行動も市場の流通構造も、見慣れた状況とは前提が異なる。いくら待っても日本が望む “環境が整う” ことはない。自らプレイヤーとなって小さな実験を重ねてみるのが何より有用だ。
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