「張り込みにはパンと牛乳を⑤」
午後7時の井の頭恩賜公園。
吉祥寺は中央線沿い屈指の人気スポットであり、住みたい街ランキングでは常に上位に入っている。実際、駅の北側にはサンロード商店街と大型電気店が賑わいを見せ、西に伸びるダイア街、中道通りと東急百貨店裏にひしめく雑貨店がある。そして駅の南側一体は井の頭公園を中心に緩やかな雰囲気を醸し出す癒しのスポットでもあり、週末はカップルや家族連れが目立つが、この吉祥寺周辺は緑も多くベッドタウンとしても人気があるので平日でも人通りは多い。
「相変わらずこの街は活気があるが、昔よりも燻んで何だか安っぽくなったな」
ベテラン刑事の和さんが、少しかすれた声でそう言った。
「和さん、安っぽいだなんて、リーズナブルと言ってくださいよ。渋谷や新宿といった緊張感や喧騒のある街と違い、吉祥寺があるおかげで若い人たちは落ち着いてデートや買い物を楽しめるんですから。大体、梨奈ちゃんだってここの美大に通っていて、もうすぐ卒業でしょう?他の街だったら和さんも心配でしょうがないんじゃないですか?」
和さんこと「木下和宏」には今年大学を卒業する娘さんがいる。奥さんと別れてしばらくは娘さんと連絡を取り合うこともままならなかったが、大学の進学に伴い、私の母・丸山玲子が奥さんとの間に入り、また会えるようになった。現在は和さんのマンションの隣に部屋を借りて暮らし、卒業後はアパレル関係の仕事に就くことが決まっている。
「俺が言っているのは、吉祥寺は昔はもっと突っ張ったクリエイターや作家がいて、ここから這い上がって有名になってやるくらいの気概を持った奴らがウロウロしていたんだ。もちろん奴らも一流になればこの街を離れていくが、そしたらまた新しいクリエイターの卵みたいな奴らが入ってきて、そうして吉祥寺は常に新しい才能で光っていたから魅力があったんだ。俺はそれを言っているんだぞ」
「そうですか」
私はそんなこと知ったこっちゃないと思ってはいたが、和さんが珍しく昔のことを話してくれたので、差し障りのない相槌を入れた。
「それにな、ディーンは東京に住んでいた時は、吉祥寺に住んでいたんだぞ。学生時代はよく4人でこの井の頭公園を散歩したもんだ」
私の母と別れた父、和さんと別れた奥さん。この4人は同じ大学に通っていた同期であり、それぞれが結婚したが離婚もしている。本人たちは昔話を懐かしむ感覚があるのかもしれないが、息子の立場からしたら、何とも言えない複雑な気持ちがあるとしか言えない。
「和さん、すみません。思い出話もここら辺にしませんか?まだ続けたいのなら、母を呼んで来ますので、二人でゆっくり思い出話に浸ってください」
私は機嫌の悪くなったフリをして、和さんに冷たい眼差しを向けたその時、後方から女性の声がした。
「聖也さん、こんばんは〜」
聞きなれた声ではあるが、母・玲子の声より遥かにトーンが高い。
「あ、お父さんもいたの。なんだ、だったら声をかけなきゃ良かった。聖也さんだけなら一緒にご飯でも行こうと思ったのに」
その声の主は紛れもなく和さんの娘さん「高山梨奈」だった。
「梨奈ちゃん、こんばんは、今日は何か用事でもあったのかな?」
「梨奈、お前まだこんなところで遊んでいたのか?早く返って、その、部屋の片付けでもしたらどうだ。うん?」
私と和さんが矢継ぎ早に梨奈ちゃんに質問したが、梨奈ちゃんは和さんの問いを無視して私の腕を組んできた。
「聖也さん、今日は大学のサークルの友達と飲み会で、でも、聖也さんの姿が見えて抜け出してきちゃったの。良かったら、このままご飯でも行こうよ」
梨奈ちゃんはまるで和さんに見せつけるように私に言ってきたのだが、和さんの殺気を感じた私は、出来るだけ丁寧に、和さんの逆鱗に触れないよう、梨奈ちゃんを傷つけないような言い回しで断りを入れた。
「梨奈ちゃん、とっても嬉しいんだけど、まだ私とお父さんは仕事が残っていて、この場を離れることも出来ないんだ。また今度、埋め合わせはするから、ごめん」
「そうだぞ、梨奈。聖也と俺はまだ仕事があるんだ。そんなことより早く帰りなさい」
「え〜、だったらお父さん、この前言っていたパソコン買ってくれる?梨奈はどっちでもいいけど。ね〜、聖也さん、ご飯に行こうよ〜」
「え〜い、分かった、分かったよ。しょうがない奴だ。この前言っていたパソコンの新調の件は買ってやるから、今日は大人しく帰るんだぞ」
「しょうがないな。分かったわよ。お父さん、約束は絶対だからね」
和さんが折れて、梨奈ちゃんが希望の品を手に入れることが出来たことは分かったが、どうやらこの親子は私を使って見えない攻防戦を繰り広げていたらしい。一瞬でも梨奈ちゃんが「本気で私を誘ってくれた」と勘違いしたことを理解した私は、赤面してその場から逃げ出したくなった。
「聖也さん、ごめんね〜」
梨奈ちゃんは笑顔で軽く舌を出し、私を利用したことに謝罪をしたのだが、その仕草が可愛い過ぎて私は責めることが出来なかった。
「その代わりに、はい」
梨奈ちゃんはカバンから紙袋を取り出し、私の胸の前に差し出した。
「これは?」
私は甘い香りのする紙袋を開けながら梨奈ちゃんに中身について説明を求めた。
「この前、玲子さんから教しえていただいたレシピで作ったものなんだけど、今日、友人に会えなかったから、聖也さんとお父さんでどうぞ。風邪を引いたり、忙しい時におすすめのホットチョコレートとシナモンロールよ」
梨奈ちゃんは両手を腰に当てて、自慢げに袋の中身を説明してくれた。
忙しい時の疲労回復・栄養補給におすすめ!ホットチョコレート(2人分)
材料:有機カカオパウダー 40g
有機ココナッツシュガー 10g
(甘くしたい時は調整してください)
シナモンパウダー 3g
豆乳 300g
「まだまだ朝晩は寒いから、この時期は体温調整にシナモンを取るのが大切なのよね」
カリッとした食感にフワッと香ばしいシナモンロール(4個分)
材料:生地
強力粉 250g
きび糖 15g
ドライイースト 3g
豆乳 45g
水 40g
無塩バター 15g
塩 3g
フィリング用
きび糖 25g
シナモンパウダー 10g
グラサージュ用
粉砂糖 適量
水 適量
「そう言えば、このレシピを教えていただいたときに、聖也さんがシナモンロールが大好きだって玲子さんから聞いていたけど、本当かしら? 部活や勉強で疲れて帰ってきた時は、いつもシナモンロールを食べていたって。聖也さんて、意外と甘えん坊なのかしら。ふふふ。ねえ、お父さん、どう思う?」
梨奈ちゃんが私の弱みを握ったかのように嬉しそうに笑っている。
確かにシナモンロールは大好きだ。スイーツ全般、むしろ甘いものは大好きで、カバンには常にチョコレートやら甘いお菓子を忍ばせている。しかし、それはイギリス人と日本人のハーフとして生まれ、この外見のために人の注目を集めやすく、周りを気にすることによる緊張感が私の神経をすり減らしている反動でもある。危険を避けようと他人の情報を読んできたことにより、私の自身の思考が休まる暇もなく、脳の使い過ぎによる突然シャットダウンを防ぐためのチョコレート・甘味なのだ。
そのことを伝えようか否か考えていたその時、我々が見張っていた容疑者らしき男が通り過ぎた。
「和さん、アイツです!」
つづく
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?