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「張り込みにはパンと牛乳を④」

午後6時のお台場海浜公園。


レインボーブリッジを「ゆりかもめ」に乗って渡ってきたと思われる学生や、デートを楽しむ数組の男女が波打ち際に押し寄せる小さな波に戯れている。砂浜では鴎の群れに幼い子供が近寄っては飛び立つというのを繰り返している。


「お台場も昔と比べたら訪れる人が減ったな」

ベテラン刑事の和さんが、少しかすれた声でそう言った。


「そう言えば、確かにそうですね。小さい頃は母に連れられてお台場によく遊びに来ていましたが、あの頃に比べると何だか物足りなさを感じます。そう言えば、和さんの別れた奥さんはテレビ局のアナウンサーだったんですよね。あんな綺麗な人を奥さんにするなんて、和さんも隅に置けないですね」

和さんこと「木下和宏」の別れた奥さんはお台場にあるテレビ局のアナウンサーの仕事をしていたが、今は地元の岡山に戻り、タレント兼アナウンサーをしている。別れた理由を和さんからは聞いていないが、噂ではテレビ局でタレントを人質にした立て篭もり事件が発生した際に、和さんが命を落としかけたことが離婚のきっかけの一つであるらしい。


「お台場に来るのはあの時以来か…」

和さんが銃を握るように右手の指を軽く曲げながら、何かを見つめるようにしてボソッと言った。今でこそ事件の張り込みや聞き込みといった情報収集をする立場にいるが、本来は現場に出てくるような年齢ではない。



「和さん、すみません、つい奥さんのことを話題にしてしまって。奥さんには小さい頃から可愛がっていただいていたので、つい懐かしんでしまいうっかり…」


「うっかりってお前…。そうか、いつの間にか聖也に気を遣わせてしまっていたんだな。それは申し訳なかったな」


「和さん、やめてくださいよ。私はこれからも和さんに着いて行きますよ」


「そうか」

和さんは軽く鼻で笑いながら、小さく口元を微笑ませた。その後、何かに気付いたように車の窓ガラスを下げて、鋭い眼差しをその方向に向けて、右手で顎髭を軽く撫で始めた。


「聖也、悪いが例のやつを用意してくれないか?」

和さんの刑事としての勘が、この事件に進展があることを弾き出したらしい。


車の周りをぐるっと見回し、人影がいないのを確認してから、

「分かりました。パンと牛乳ですね。用意してきます」と、和さんに伝え、車を後にした。


体力や分析力・判断力、刑事に必要な要素は幾つかあるが、刑事の勘を養うには膨大な情報と経験に裏打ちさせた自信が必要になってくる。私にはまだその勘を養うだけの情報も自信も無いかもしれないが、和さんと行動を共にすることで質の良い経験を積もうと考えていて、和さんも私に対して良い影響を与えようとしてくれているようで、実際、多くのことを教えてくれている。



「和さん、例の物、調達してきましたよ」

車のドアを開けたその瞬間、車内から甘い香りとケタケタと笑う声が聞こえてきた。


「あら、聖ちゃん、今日もお疲れ様。お母さん、たまたま仕事でテレビの収録に来ていたの。そうしたら、あなたが車から出るのが見えて、もしかして和さんもいるんじゃ無いかと思って来てみたら、やっぱり和さんがいたのよ」

刑事たるもの家族にも仕事の内容や現場について語らない。そう和さんから教えられて気をつけるようにしていたのだが、またしても母・丸山玲子が車に乗っていた。


「和さん、何度もすみません。私もどうしてこうも母が現場に現れるのか意味が分かりません。母さん、何だってこうも仕事の邪魔をするんだ!」

私は乱されたペースを整えようとしたが、母・玲子に対する怒りや恐怖心を振り払いたい気持ちが勝り、強い口調で言葉にしてしまった。


「そ、そうね…」

母・玲子の笑顔が引き攣っていく。その時、和さんから思いもよらない言葉が返ってきた。



「聖也、お前、刑事に必要なものが何か分かるか?」


「和さん、それは身体的な能力や頭脳、行動する勇気や忍耐力じゃないですか。それと野生の勘みたいなものじゃないんですか?」


「聖也、そうだな、お前の言うことも確かだ。だがな、刑事にとって本当に大切なものをお前は見失っている」和さんは言葉を続けた。


「確かに玲子さんがいることで仕事がしにくくなることもある。刑事らしい暗黙のルール見たいなものも存在するし、何より情報を一般人に漏洩してしまう恐れがある。それと、状況的に親が職場に来るのが恥ずかしいという気持ちもあるだろう」

「だがな、親が子を思う気持ちであったり、何かしたいという気持ちの何が悪いんだ?俺だって娘の梨奈のためなら何だってできるが、娘と会えなくなるのなら刑事をやめた方がマシだとも思っている」

「若いうちは頭も体も動ける分、間違った判断も起こしやすい。目的のために自分を犠牲にすることだってあるだろう。実際、俺もそうだった。俺が言いたいのは、自分の家族を守ることが出来る奴が、周りや社会を守るということだ。自分の命を惜しんで身を引く勇気が、刑事には何よりも必要なことで、今の若い奴らはそれを分かっていない。だから命を粗末にし、こんな老いぼれが現場に出るしかなくなってしまっているんだ」

「それにな、聖也、玲子さんがいることで、この車は刑事が張り込みしてようには見えなくなるってこともあるんだぞ。じゃなければ、こんな俺みたいな奴と若い奴が乗ってる車なんて、怪しいもんだ。時には懐を深く、逆転の発想で今の状況を柔軟に考えれば良いことだってあるもんだ。刑事に必要なのはどんな状況でも勝ち筋を見つける「機転」だぞ。はっはっはっ」


この時、和さんの器の大きさを改めて感じたような気がした。この人は毎回状況を憂いてはいるが、その状況をすぐさま良い方向に受け取り直し、プラスのベクトルへと転換していたのだった。実際、和さんが捜査した情報は、膠着した事件の突破口に何度もなっている。

私は母・玲子が現れることの嫌悪感で一杯になり、状況を終わらせるか、逃げ出すことばかり考えていたので全体が見えていなかった。



「和さん…」

和さんが私に言った前半は、子を思う親としての言葉だったのかもしれないが、大切なのは後半の「臨機応変に状況を理解して捜査を進める機転を持つ」と言うことだったと思った。



「聖ちゃん、ごめんなさい。そして和さん、ありがとう」

母・玲子は左手でそっと右手を包み、和さんの言葉を静かに受け止めている。

その表情は、どことなく嬉しそうで、でも何かを思い出しているようだった。


「何だか湿っぽくなっちゃったわね。さっき、お仕事で作った余り物だけど、お茶とスイーツ食べましょう。ね、和さん、聖ちゃん。今日のお茶は、この時期のアレルギーや花粉症、風邪対策におすすめのエルダーフラワーのハーブティーと、甘さと苦さが絶妙な抹茶のババロアよ」

母・玲子は仕切り直すように明るい声で、カバンから水筒とスイーツの入った袋を取り出した。



アレルギーや花粉症対策におすすめ!エルダーフラワーワーブティー(2人分)


材料:ドライハーブ

   エルダーフラワー 1g

   エキナセア 0.5g

   ペパーミント 0.5g

   カモミール 0.5g

   たんぽぽコーヒー 0.5g

   なつめ 1g



「少し苦目だけど、毒素を排出して良い気を入れるのがポイントよ。それと聖ちゃんの好きな餡子と抹茶のババロアも食べてね」



甘さと苦さが絶妙な餡子と抹茶ババロア(2人分)


材料:抹茶 5g

   熱湯 大さじ2

   卵黄 1個

   豆乳 100cc

   グラニュー糖 30g

   粉ゼラチン 3g

   水 小さじ1

   餡子 

   小豆 25g

   グラニュー糖 25g

   塩 1〜2つまみ

   水 適量



「鼻がムズムズしたり、喉がイガイガするこの時期は、体内の毒素や熱を外に出す働きのあるエルダーフラワーがいいのよ。重くなった心を開放する働きもあると言われているし、それにエルダーの枝は魔法の杖を作るのにも使われているのよ」



「さすが、玲子さんは物知りだな」

和さんがババロアを頬張りながらそう言った。


いつも母の登場によって残念な気持ちになっていたのだが、今日はそれよりも和さんの寛容さや物事を捉える視点の柔軟さに心を打たれてしまい、母・玲子の存在が前よりも気にならなくなっている。今もこうして車の中で3人でお茶とスイーツを楽しんでいる姿は、張り込みをしているようには見えないのだろう。
私は「刑事らしさ」を履き違えて思い込んでいたのだが、和さんよってそれを醒めさせてもらい嬉しくなった。


その時、車の脇を我々が見張っていた容疑者らしき男が通り過ぎた。






「和さん、アイツです!」




つづく

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