「張り込みにはパンと牛乳を⑦」
午後1時の南青山・青山通り。
春の陽気に移り変わったものの、首筋をなぞる風がまだ冷んやりとしている。街には卒業式を終えた袴姿の女性が目立っている。ここ数年は式典や催しを自粛する企業・団体が多く、学校行事も例外ではなかった。そのせいか、この瞬間を迎えられることに感慨深く、複雑な感情が溢れている人たちが多いように見えた。
「この日のために努力したのか、努力したからこの日があるのか、どっちなんだろうな…」
ベテラン刑事の和さんが、少しかすれた声でそう言った。
「そうですね、まあ、どっちもとは思いますが、卒業するために努力を積み重ねるというのは山登りのような感じですね。少し論点はズレますが、私はどちらかというと海の方が好きなので、友人たちとわいわい当てのない航海を楽しんでいきたいですね。」
実際は航海するのにも努力は必要だが、友人や仲間と苦楽を共に過ごす表現として航海という言葉を使った。
「そうか、どちらも遭難は付いて回るな」
和さんは私の言葉に対して興味を示さなかったが、きっと結論を求めていかったのだと思った。
「それはそうと、梨奈ちゃんの卒業式はいつなんですか?」
和さんの一人娘の高山梨奈はこの春大学を卒業してアパレル関係の会社に勤めることになっている。
「もう終わったよ」
和さんはそっけない言葉を返してきた。
「和さんは卒業式に参加したんですか?」
私は参加しないと思ったが、敢えて聞いてみた。
「するわけないだろう」
「何でですか?」
「まあ今回は、梨奈の母親が来るので俺は控えたんだ。そんなことはどうでもいいだろう」
和さんが面倒臭そうに、でも心の奥底で寂しさを感じているのが私には分かった。それを表現するのが面倒臭いのだと思う。父親というのは、そういう不器用な生き物なのかもしれないと私は思った。
春の風に乗って少し早めに咲いた桜が、ヒラヒラとフロントガラスに溜まっていく。
国際大学の前ではマーケットが開催され、多くの人で賑わっている。
ゆっくりと過ぎる光景の中で、日々の喧騒から解放されたような陽気が車内を包み、時間が止まったように感じていた。
しばらくすると、和さんがいつもの言葉を口にした。
「聖也、悪いが例のやつを用意してくれるか?」
「分かりました。パンと牛乳ですね。用意してきます」と、和さんに伝え、車を後にした。
この穏やかな陽気の中で、事件など起こらなければ良いのにと内心では思いながら、コンビニに向けて歩いていた。
しばらくして、背中に「ドン」と固い筒のような物を押し付けられた。
「あんた、あの木下の同僚か?」
「え、あなたは誰ですか?」
「質問しているのはこっちなんだ。あんた、今の自分の状況が分かっていないんだな」
押し付けられている物から「カチャ」という音が聞こえた。
どうやら押し付けられているのは拳銃で、安全装置を外した音が鳴ったのだと理解した。
「あなた、物騒なことはやめた方がいい。何の理由があってこういうことをしているのかは分からないが、周りには一般市民だっているし、そう簡単には逃げられないですよ」
「うるさい、俺に指図するんじゃねえ。俺は昔、あの木下に捕まったんだ。アイツのせいで俺は嫁や家族と離れて暮らすことになったんだ。アイツのせいで」
後ろの男は小刻みに震えながら、和さんへの恨みを口にした。
「いやいや、捕まるようなことしたからじゃないですか。それを和さんに逆恨みするなんて、恨みの感情をぶつける相手が違いますよ。元はと言えばあなたの弱さが生み出した犯罪なんじゃないんですか?」
私は至って冷静に、理不尽さを伴う相手の意見に屈しはしなかった。
「それに、今こうして私に対して行っていることが一体何の解決になるんですか?仮に私一人の命を奪ったとして、それで奥さんもご家族も戻るわけではないし、かえって大切な人たちを傷つけてしまうことになると思いませんか?もうご家族に会えないから、だったら自分が何してもいいと思っているなら、それは大間違いですよ。あなたが人生を傷つけるような人だから、ご家族は離れていってしまったんです」
「人や環境のせいにして、いつも上手くいかないのは周りのせいだって思っているなら、その理屈に逃げ込んでいるんなら、どうぞ遠慮なく私を傷つければいい。また自分を傷つけることになるとも知らず、勝ったフリをすれば良い。でも、私は武器は持たずとも、あなたに立ち向かっているから、私の人生が傷つくことはない。打たれても私は負けませんよ」
出来るだけ柔らかく、冷静さを持って私が言ったので、相手の男は私から不気味さを感じ取っている。
その時、後ろから男が引き剥がされる音がした。その音を聞いて振り返ったその瞬間、和さんが男を投げ飛ばしていた。
「お前はまたこんなことをして。何度、俺に投げ飛ばされりゃ気が済むんだ」
男は和さんに取り押さえられ、所轄の警官に引き渡された。男が持っていたのは拳銃ではなくモデルガンだった。
「聖也、大丈夫か?」
「はい、大丈夫です。和さんありがとうございます。あの男、昔和さんに逮捕されたことがあるとかって」
「ああ、しょうもないことでな。アイツにも一人娘がいて、ちょうど梨奈と同い年だったはずだから、色々思うところがあったんだろう。悪いな、聖也に迷惑かけちまって」
「いやいや、全然、大丈夫です。そうですか、梨奈ちゃんと同じくらいの」
和さんの無念そうな表情が、子供を思う親の気持ちとしてあの男に向けられているように感じた。
「聖也、ちょっと気分を取り直してあそこの店でコーヒーでも飲むか。奢ってやるよ」
「あ、良いですね、ぜひお願いしますよ。これは大きな貸しとして、ケーキもいただきゃなきゃならないですね」
「調子に乗るな」
和さんは、「しょうがないな」と言わんばかりの顔を見せ、我々は近くの喫茶店に入った。
すると店の奥から聞き慣れた声が我々の名前を読んだ。
「あら、和ちゃん。あ、聖ちゃんも」
母・丸山玲子の声だった。
そして、
「あら聖也くん、大きくなったわね。元気そうで。あら和宏さん、あなたはいつもと変わらず冴えないのね」
母・丸山玲子と一緒にいたのは、和さんの元奥さん「高山つかさ」だった。
つづく
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