新卒プロパーから社長就任、それからのこと その19
ビジネススクールへの通学は僕に大きな刺激を与えた。
名古屋校は2005年で開校3年目。
参加している連中は意識が高く能力的にも優れていた。
自分でそこそこできると思っていた僕はその能力の差に愕然とした。
完全に「井の中の蛙」だった。
自分のいる世界がいかに小さいかを痛感。
何もかも劣っている気がして危機感が増した。
却ってそれがよかった。
もし、ビジネススクールに通っていなければ今の僕は存在しなかった。
素晴らしい友人にも出会えたし、ここでの付き合いが自分の支えになった。
今もオンとオフの師匠でもある講師と出会ったのも2005年。
志の高い仲間と付き合い自分の未熟さを実感し机にも向かった。
それは仕事にもいい影響を与えた。
毎年のように僕が選考したメンバーが入社するのも励みになった。
仕事が好循環で回ったため、会社に対してのネガティブな要素も薄らいできた。
会社は2005年に名大社火曜日という子会社を設立。
非常勤の女性の営業部隊で転職フェアなど自社メディアを販売。
それほど知識やノウハウがなくても売れたので大きな戦力にもなった。
メンバーは火曜日のみ出勤。
ほぼ業務委託に近い雇用契約で歩合制。
会社として固定費のリスクは少なかった。
社長は名大社水曜日、木曜日、金曜日と作ることで営業チャネルを増やすことを目論んだ。
一時期は盛り上げてくれた存在だったが、
最後は僕が解散させることになってしまうが・・・。
この時期は業績的にも好調で、南端の会、北端の会という慰安旅行が企画された。
1年に2回メンバーをチョイスし、沖縄と北海道に3泊4日の旅行に出掛けた。
僕は沖縄の1組目で贅沢な経験もさせてもらった。
全額会社持ちでホテルもブセナテラスという高級リゾート。
利益還元も積極的に行われた時期で、ほぼ全員に順番が回ってきた。
オンもオフも多忙。
罪滅ぼし的に家族で毎年夏に沖縄旅行、冬に温泉旅行に出掛けた。
点数稼ぎをして何とか平和を維持。
あちこちに気を遣う日々だったが、充実もしていた。
2006年4月には制作企画部門の責任者を任された。
5月末の株主総会で取締役の就任も決まった。
「取締役待遇次長」というヘンテコな役職は名刺から消えた。
40歳になったばかりで史上最年少の役員。
サラリーマン人生でピークを迎えたが、長くは続かなかった。
続く・・・。