飲み代 月15万円。アルコールを再びやめてみます。
ひたすら飲み続けてきたアルコール飲料。
このたび、再びやめてみようと考えています。
やめるの、2度目です。
1. 大学院生のとき
1994年4月から1996年3月までは、土日返上で、毎日夜遅くまで、研究室で実験をする、という理学研究科・有機化学専攻の大学院生でした。
学部学生の4回生のときは、それほど忙しくなかったのですが、大学院の修士1年目から修士2年目の半ばごろにかけての生活が、
・遅くまで実験して、研究室で1泊する。
・翌日も遅くまで実験して、終電で自宅へ帰る。
・翌朝、研究室へ行き、遅くまで実験して、研究室で1泊する。
というものでした。
なかなかいいデータが得られず、4℃ の部屋で試行錯誤しつつ実験を繰り返すのでした。
実験がうまくいかないので、ストレスもかなり溜まってきていました。
終電で帰って、いつも自宅でバーボンをロックで、少なくとも3杯は飲んでいました。
遅い時刻の帰宅ですが、深夜 1:00 am まで開いている酒屋さんが近所にあったので、とても重宝していて、ストックがなくなるたびに、バーボンを補充していました。
このころは、まだ自分がアルコールにおぼれている、という意識はまったくなく、ただひたすらに飲んで、眠りについていました。
2. 製薬会社の会社員のとき
1996年3月で、なんとか無事に修士で大学院を出て、4月に製薬会社に研究所の研究員として入社しました。
仕事として行う実験は、給与をもらっている以上は、学生のころの実験とはケタ違いに責任が重かったです。
新入社員でも、いきなり実験補助の方がついていらして、指示を出さねばならず、かかるストレスもかなりのものでした。
疲れ切って独身寮へ戻って、飲んでいたのは、キンキンに冷やしたウォッカでした。
冷凍のところに入れておいても、アルコール度数が高いウォッカは凍らずに、粘度が上がってトロトロの液体になります。
出たばかりのコロンとした iMac の画面を見つつ、当時はダイヤルアップ接続のネットにつなぎつつ、おちょこで冷えたウォッカをちびちびと飲んでいました。
金曜の夜は1週間の疲れもあり、ヘトヘトになって寮へ戻ります。
着替えるとすぐにウォッカをあおっていました。
気がついたら、寝ていました。今で言う「寝落ち」です。
時刻は 1:00 am とか、2:30 am とかの深夜・早朝枠でした。
寝落ちから起きて、酒屋が開いていれば酒屋へ、深夜・早朝ならコンビニエンスストアがあるので、ウォッカのビンが空になるたびに買いに行きました。
そして、時刻関係なく、再び飲みはじめるのです。
週末、ということだけは、なんとかわかっているのですが、今はいったい何曜日の朝なのか、昼なのか、夜なのか、深夜なのかも、わからないまま、ただひたすらに飲み続けては、寝落ちして、また飲んでいました。
どうやら夜が明けて、月曜の朝らしいです。
会社に行かねばなりません。
軽い二日酔いのまま、混み混み電車に揺られていました。
こういう「飲酒 → 寝落ち → 飲酒 → 寝落ち → ・・・」を繰り返すことを「連続飲酒」と言うことは、あとで知りました。
あるとき、週明けの月曜から東北地方へ出張するということがありました。
やはり週末に、いつものとおり連続飲酒をやってしまいます。
月曜の午前中の飛行機で東京・羽田空港から移動なのですが、起きた時刻が飛行機の出発時刻のあとでした。
肝心なときに遅刻してしまいました。
ふらつく頭をかかえながら、あわてて新幹線の駅へ向かうのでした。
1年3ヵ月で研究所配属を解かれ、人手の足りない臨床試験の部署へ異動となりました。
学生のころから研究・実験だけでやってきたところへ、スーツを着て病院を回るという慣れない仕事に右往左往していました。
当然のことながら、酒量がますます増えていきました。
夜にちゃんと眠れなくなってきたのも、このころで、1999年のことでした。
眠れないので、さらにアルコールをあおるという飲み方をしていました。
本当は、アルコールが眠りを浅くするのですが、そんな知識は持ちあわせていませんでした。
北関東にある担当している病院への出張が、朝早くにあったのです。
明朝は早く起きねばと思いつつ、出張前の緊張のため夜遅くまでアルコールを飲んでいました。
同行する上司からの電話で起きました。
上司はもうすでに出張先の病院に到着していて、待ちぼうけを食らわせていたのです。
仕事の成果はまったく出ず、溜まってくるのはストレスと酒の空きビンだけでした。
ストレスで眠れなくなったので、精神科に通いたいということを部長に直接申し出ることにしたのです。
次の人事異動で、臨床試験の部門から知的財産の部門へ異動となりました。
最初のうちは、事務作業が多く、日付が変わってしまうくらいの遅い時刻までの残業も楽々とこなしていました。
知的財産の部門ならなんとか仕事ができるかな、と思ったのですが、自分で調査や特許申請書類を書くという仕事になると、とたんにできなくなってきたのです。
技術内容から特許という特殊な文章を作る、という業務にわたしがまったく向いていない、ということがわかってきたのです。
アルコール摂取量はうなぎのぼりになりました。
週末の連続飲酒はもちろんのことですが、出社前の飲酒も必須になってきました。
アルコールを飲んでからでないと、会社に行けなくなってきたのです。
うつ状態もかなりひどくなってきて、希死念慮もよぎってきました。
オーバードーズ (大量服薬・Over Dose = OD) をして、精神病院に入院したのは、2005年1月のことでした。
このころは、休職 → 復職を繰り返していました。
結局、2006年5月に製薬会社を退職することとなりました。
3. 特許調査会社の会社員のとき
2006年9月に特許調査会社に転職しました。
データベース調査の資格試験にも合格したのですが、仕事に対する自信がまったくないのです。
「本当にこれでいいと思う?」と聞かれると、「い、いえ・・・。」と言葉を濁す毎日でした。
例年訪れてくる冬季うつもあいまって、2007年1月に2回目のオーバードーズをしてしまいます。
このときは、救急車だけでなく、はしご車も出動して救出しようとしたり、入院したのは大学病院の ICU だったりで、相当状態が悪かったようです。
ICU から精神病院へ移って、一度退院しても、また状態を悪くして、再度精神病院に入院しました。
そのまま、特許調査会社は退職となりました。
4. 旅行業で個人事業主のとき
2007年11月から個人事業主で旅行業をはじめました。
仕事が自分に合っていて、楽しくて仕方がないのです。
時間の経つのを忘れて、仕事に没頭していました。
しかし、まだ日照時間が短い2009年2月から、またうつ状態となります。
仕事はまだまだやることがあるのに、「もう、5:00 pm だからいいだろう」と思って、アルコールを飲みはじめたのです。
同居していたパートナーと口論になり、東京の住まいを追い出されて、わたしは大阪の実家へ戻ったのです。
大阪に戻って、精神科クリニックの初診をお願いしたのですが、「アルコール依存症の方は、アルコール依存症専門のクリニックがあるので、そちらへ通ってください」と言われてしまいました。
アルコール依存症専門のクリニックへ初診で行き、精神科医からいきなり、「君は一生分の酒を飲んでいるから、今からきっぱり酒をやめなさい」と言われたのです。
(キツイ先生やなぁ・・・)と思いつつも、従うことにしました。
アルコール依存の人が断酒すると、わたしの場合は、1週間寝込みました。
離脱症状です。体がどうしようもなくだるいのです。
テレビでアルコール飲料の CM が流れたり、母が粕汁を作っていると、それぞれに過剰に反応して怒りまくっていました。
依存症専門のクリニックでは、飲酒の要因として、
HALT
- Hungry (空腹)
- Angry (怒り)
- Lonely (孤独)
- Tired (退屈)
があるということを教わりました。
HALT がなければ、酒を HALT (止める) ことができるのです。
結果、2009 - 2011年の3年間、一滴もアルコールを飲まないでいられました。
しかし、徐々にまたアルコールを飲み始めるのです。
2020年6月に、わたしは3ヵ月短期移住していたマレーシア・クアラルンプールから大阪の自宅に戻ってきました。
戻ってきても、COVID-19 (新型コロナウィルス感染症) 蔓延の影響で、海外旅行の仕事がまったくないのです。
仕事がまったくない = Tired (退屈) なので、酒を飲む要因はしっかり整いました。
外飲み限定ということで、2012年からは飲酒復活だったんですが、その外飲みの頻度と金額がぐんぐん上がっていったのでした。
外食費が1ヵ月に15万円という月が続きました。
これでは、さすがにまずい、と思い、冬季うつもあることから、思い切って2020年11月に沖縄県へ移住しました。
沖縄も誘惑の多い那覇でなく、中部のうるま市石川に住むこととしました。
住んでいるところの近くには、飲食店はそれほどありません。
飲食店はなくても、スーパーでビールを売っています。
わたしの大好きなオリオンビールです。
こちらへ引っ越してきてから、ちょこちょこと飲んでいましたが、依存からは完全に脱出しようと思った次第なのです。
2回目の断酒、続けていきたいです。
今まで、酒に翻弄されてきました。
ストレスに弱いわたしは、酒に逃げていました。
断酒しても、また酒が呼んでいるのです。
今のうちの再断酒なら、まだ間に合うと思うのです。