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「教祖絵伝」を読み直す 3/25 「五重相伝から舅·姑の出直し、秀司·おまさ·おやすの出産まで」

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平田弘史さんの作画による「教祖絵伝」の読み直しも、順を追って進めて行きたい。「まんが おやさま」の中で取りあげられていなかったエピソードの中で特筆すべきは、中山みきという人が中山家に嫁いで6年目の19歳の時に、現在天理高校になっている場所の南側に位置する勾田村の善福寺という寺で、浄土宗の秘儀とされている「五重相伝」を受けた時の様子が描かれていることだと思う。このことは善福寺の記録にも残されており、彼女が人生の早い時期から強い宗教心を持った人だったことを窺い知ることのできる、数少ない客観的傍証のひとつとなっている。

…文章を短くするために、「強い宗教心」などという、分かったような分からないような言葉をとりあえず使ってみたのだけれど、しかし「強い宗教心」というのは実際のところ、「どういう心のありよう」のことを指す言葉なのかと人から問われたら、私はどういう答え方をすればいいのだろう。言っちゃあ何だが私自身は自分の中にそういう「心」があるとはあんまり思っていないもので、意味もよく分かっていないままに他の誰かが使っていた言葉を流用させてもらったのだということを、まずは正直に自己申告しておかねばならないと思う。

一応、私にも私なりの言葉の選び方の基準というものはあって、例えば今回の場合、「熱烈な宗教心」みたいな言葉を使うと、何だかその宗教心のことを「評価」しているようなニュアンスが生まれてくる。だからといって「強烈な宗教心」みたいな言い方にしてみると、その宗教心のことを「批判」しているような響きになる。どっちもイヤだと私は感じたので、ここでは「強い宗教心」という感情移入を交えない表現をあえて選択してみた次第であるのだけれど、強度に関する話はこの場合、比較的どうでもいい話だと言えるだろう。問題は飽くまでも「宗教心」という言葉の中味なのである。

普通、世の中一般の人が寺とか神社とかに足を運び始めるその契機というものは、最初は親に連れられてとか、共同体の行事としてとか、そういった「外的強制」によるものであると思う。それが物心つく前の段階でなされた場合、「外から強制されて」という感覚は本人の中にもあんまり意識されないものであるかもしれないが、あえてそれを拒否すれば親からは叱られるのだし、共同体からは排除されるのだし、その本質は飽くまで「強制」であると言わねばならないだろう。しかしながらその人がある時期から「外的強制」を離れて、「自分の意思で」寺とか神社とかに通うということを始めた場合、それはその人自身の「宗教心」にもとづく行為であると見ることが必要になる。

その「宗教心」の内容、言い換えるならその人が自分の意思で寺とか神社とかに通い始めるその動機として、最もありふれているのは「自分がたすかりたいから」という理由であるだろう。家内安全、心願成就、諸病平癒、怨敵調伏等々、自分の力ではどうすることもできない望みや課題や困難に直面した時、人は何かしらの超自然的存在の「力」を、「求める」ようにできているものであるのかもしれない。そんな風に「神仏にたすけを求める気持ちが強い人」が、世間においては「信心深い人」と呼ばれているというのが私の印象である。

しかしながら「神仏の力にすがってでも」たすかりたいという強い願望を持っている人は、もし現実に自分のことをたすけてくれることのできる富や力を持った、政治家なり白馬の王子様なりといった類の「人間」が具体的に自分の前に現れた場合、迷わずその「人の力」を頼って、神仏のことなど簡単に忘れてしまうことができるものではないのだろうか。自分がたすかることだけが問題であるならば、たすけてくれる相手が「神」であっても「人間」であってもそこは関係ないわけである。そう考えてみると、「自分がたすかりたい気持ち」一般のことを「宗教心」と呼ぶのは、何か違っているような感じがする。

一方、「たすかりたい」という気持ちから一歩進んで、と言うべきだろうか。「人をたすけたい」という気持ちから寺や神社の門をくぐる人たちも、世の中にはやはり存在している。一般に「宗教家」と呼ばれているのは、何をおいてもそういうタイプの人たちであると思う。もっとも、「自分以外の誰かのために祈る」ということそれ自体は、別に宗教家の専売特許というわけでもない。自分のことをそっちのけにして世界平和を祈るようなことは、確かに誰にでもできることではないかもしれないが、自分にとって身近な人、例えば家族や恋人に「たすかってほしい」という気持ちから神仏に頼ろうとする人たちというのは、「自分が助かりたいから」という理由で宗教に頼ろうとする人たちよりも、数の上ではよっぽど多数派なのではないかと思われる。

ということは、「宗教心」というのは「人をたすけたい」という気持ち、「人にたすかってほしい」という気持ちのことを指す言葉なのかといえば、それもやっぱり違う気がする。そういう気持ちが人一倍強い人というのは、つまるところ「人を愛する気持ちが強い人」であるというだけのことだ。それを「宗教心」と結びつけることには、飛躍があるように思う。

それらとは位相の違う動機として、「真理が何であるかを知りたい」「世界の秘密に触れたい」といった気持ちから神社仏閣の門を叩く人も、また存在している。とりわけ中山みきという人の時代には、義務教育で通える学校も無料で使える図書館も存在していなかったわけなのだから、何かを知りたい学びたいという気持ちになったなら、まずは身近なお寺を訪ねようと思うのが一番「自然」かつ現実的な発想であったことだろうと思う。

けれどもそれらは飽くまで「好奇心」「向学心」の範疇に属するエネルギーなのであって、「宗教心」とイコールで結べるようなものではやはりない。宗教からは「学校で教えてもらえないこと」を学べるのだと主張する人もいることだろうし、そのこと自体は私も否定しないのだけど、学校は学校で「宗教の中にいたのでは学べないこと」を教えてくれたりもするのである。「学びのための場所」として、両者の間に根本的な違いがあるとは私には思えない。あえて違いを求めようと思うなら、それは「専門としている分野の違い」ぐらいのことにすぎないと思う。

…こうしてみると、「宗教心」というのは一体どういう「心」のことを指して言う言葉なのか、さっぱり分からなくなってくる。ひとつ言えることとして、上に列挙した「助かりたい」や「助けたい」、また好奇心や向学心といったエネルギーは、いずれもその人自身の「欲求」を根拠としつつ、人間の側から世界に向かって働きかけていく「能動的な心のありよう」だと思うのだけれど、「宗教心」というのはそれとは対象的に、「受動的な心のありよう」を指す言葉であるという印象を受けるのだ。「見ること」「聞くこと」が「科学する心」の出発点をなしているとするならば、「宗教する心」の起点をなすのは「見えること」「聞こえること」なのではないかという感じがする。あえて名付けるならばそれは「積極的な受動性」とでも呼ぶべき「心のありよう」であると、言うことができるのではないだろうか。

…何なのだそれは、という気がしてくるが、この問題には繰り返し立ち返ってくる必要があると感じている。その「宗教心」の中味がわからなければ、結局中山みきという人のことも「わからない」と感じるからである。それが何であるかをあらかじめ分かっていたはずはなかったにせよ、そこに行けば何かを受け取ることができることを「知って」いたからこそ、彼女は人生の早い段階から寺や神社といった宗教的な空間に「自分の意思で」足を運んでいたのだと思う。そしてそれは、世間並みの人間であるところの我々自身がそうした場所に惹かれることの、理由をなしてもいるはずなのである。

「五重相伝」とはどういう儀式だったのかということについても詳しく掘り下げて考えてみたいと思っていたが、今回の記事は既に相当冗長になっているし、平田さんが絵の横に書いてくださった説明書きだけで充分なのではないかという感じが、今はする。当時においても形骸化されていた儀式ではあったらしいのだが、その中において「今度の五重相伝で一番まじめに真剣に仏法を求めていたのは、みきさんだった」というお坊さんの言葉が残っているらしい。そのことの上で、この「浄土宗の最高秘儀」に対する彼女自身の感想というのは、「何だこんなものか」というものではなかっただろうかと私は感じている。「五重相伝」を受けた人は、「以後、他の教えに心を移してはならない」ということを最後に阿弥陀如来の前で厳粛に誓わされるらしいのだが、彼女はそれからほどなく明らかに真言宗に心を移し、二里も離れた山奥に住む名僧のもとに教えを乞いに通ったりしているからである。「もはや見るべきものは見つ」と彼女は思ったのだと思うし、我々の感覚に引き寄せて言うなら「学校の卒業式」みたいなものとして彼女はそれを受けたのではないかと感じる。彼女が「自由に」自分の探求の羽根を拡げてゆくための、それは新たな出発点だったのだろうと思っている。

なお、記録によると、この「五重相伝」を前後する時期に、彼女は最初の子どもを死産している。その子が「死んで生まれた」ことを示す「泡水童子」という戒名が、善福寺に残されている。それが「五重相伝」の前だったか後だったかということは、彼女が「五重相伝」を受けたそもそもの動機に関わる問題として重要だが、そこのところはどうもハッキリしていないらしい。いずれにしても、人間としての彼女の人生にとっては、それは最も大きな事件のひとつであり、ショックな原体験となったに違いなかったことだろうと想像される。

最後のコマに描かれている「身重の彼女が姑をおぶって近所を回った逸話」についても、無事に産まれた子どもを身ごもっている時の話だったとしたなら「微笑ましいエピソード」なのだが、その子どもが死産で生まれてきたとしたなら、話の性格も変わってくる。「嫁にあんな無理をさせるから、子どもを死なせてしまったのだ」と噂する人もいたことだろうし、こんな話が「残っている」ということはその結果なのではないか、という、穿った見方も存在するようである。あえて意地の悪い見方をしようとは私自身は思わないのだけど、この話が上に描かれている通りに「無事に産まれた長男」を懐妊している時のことだったとしても、それが「最初の子を死産した後」の話だったのだと考えてみれば、その上でなおかつこんなことをさせる姑さんというのはどういう人なのだろう、という気持ちがやはり生まれてくる。そういうことを考えさせないようにという「配慮」なのだろうか、死産で生まれたという「最初の子ども」のことについて、「稿本教祖伝」に何も記載していない天理教本部の態度というのは、しかしやはり不誠実なものであると私は感じる。

というわけで次回に続きます。

サポートしてくださいやなんて、そら自分からは言いにくいです。