雑誌を作っていたころ082
会報誌「ザ・テルミー」
あるとき、古い知り合いから連絡が来た。ぼくが「ドリブ」の編集者だったころにアルバイトで原稿を書いていたパソコン誌「RAM」の元編集長だった坂本さんだ。彼はライターとして活躍していたが、忙しいので少し仕事を他に振りたいのだという。「できることなら喜んで」と答えたら、さっそく依頼が来た。
仕事の内容は、ある会報誌の巻頭インタビューだった。取材をして原稿を書けばよいらしい。それならできるかなと思って引き受けたら、それからぽつぽつと仕事が来るようになった。「もう二度と頼みたくない」という出来ではなかったようだ。
ある会報誌というのは、イトオテルミー親友会という100年近い歴史を持つ民間温熱療法団体が年に4回出しているもので、タイトルを「ザ・テルミー」という。会員が全国に7万人ほどいるので、部数は10万部近いという。なかなかの大雑誌である。
そして、今回のインタビュー相手は、俳優の仲代達矢さんだった。仲代さんのことは、芸能界に疎いぼくでも知っている。俳優として活躍するかたわら、奥さんの宮崎恭子さんと立ち上げた劇団の「無名塾」は、役所広司や若村麻由美を輩出した劇団として有名だ。
インタビューの準備でいろいろと調べているうちに、はるか前に膵臓ガンで亡くなった宮崎恭子さんの言葉が目に飛び込んできた。彼女が生前、無名塾の若手俳優に向かって語ったものだ。
「心に元気を持たないとつまらない。想像力をふくらませて、自分のことを好きになろう。命を賭けて守るべきものは、命しかない」
凡百の自己啓発書が裸足で逃げ出しそうな力強い励ましの言葉だと思う。無名塾は、仲代・宮崎夫婦が「自分たちの生きてきた爪痕を世に残したい」と創立した劇団だが、一方で二人はこれを「死の準備」ととらえていた。
インタビュー原稿のタイトルは、こう書いた。
何歳になっても向上心を持っていたい。
「老化」は「進化」。
そんな気持ちで毎日を生きています。
劇団の前の坂道には、「無名坂」と命名したプレートがあった。
若きもの
名もなきもの
ただひたすら
駈けのぼる
ここに青春ありき
人よんで
無名坂
一九七五年始まる
無名塾
仲代達矢
隆巴(りゅう・ともえは宮崎恭子さんのペンネーム)
宮崎恭子さんは俳優座養成所で仲代さんの1年先輩。女子学院出の才媛だったたが、自分を表現する仕事がしたいと女優の道へ。人気が出て「これから」というときに、まだ無名だった仲代さんと恋に落ち、結婚して女優業をあきらめてしまう。
それ以来、仲代さんを陰になり日向になり支え続け、自分は脚本家・演出家として、そして「無名塾」の屋台骨として活躍した。一見、自分の道を犠牲にしたかのようだが、彼女はそのことを問われると一貫して、「だって私は、仲代達矢のファンだから」と答え続けていたそうだ。