別の世界線の涙は左目に
「世界線」という言葉がもともと
相対性理論の絡みで使われていて
いま使われているような
「この現実とは違う選択をした別の世界」
みたいな意味ではなかったことは気になるが
世界線という言葉は便利だ
俺のガンは直腸のもので
リンパに浸潤していたそうだ
用心の意味もあって直腸の
結構な部分をとってしまった
6年前の2018年
きっかけは全然違う箇所
S字結腸だったろうか
直腸より遥かに上だ
その辺がつかえるような
詰まっているような症状
お医者さんに相談して検査したところ
その部分はなんともないとのこと
しかし念のために内視鏡で見た
自覚症状のなかった全然違う場所
直腸にポリープ的なものがあるという
ポリープ自体は内視鏡検査中に
切除できた
「そこじゃないんだけどな」
と思いつつ
取った組織を検査に回すと
組織分析の結果
ガン
手術が決まった
内視鏡検査の時点で
ガンそのものは取れていたのだが
リンパへの浸潤が気になるので
取らせて欲しいと言われ
直腸をたくさん取ることに
そうやってロボットの手術でガンをとってから
俺は悲しい訳でも
感動しているわけでもないのに
左目からだけ涙が流れることが
多くなった
景色を見ているとき
美味しいものを食べたとき
うたをみんなに聞いてもらっているとき
勝手に涙が流れ出す
老いただけかも知れないし
手術の経験のせいかも知れないし
そうじゃないかも知れない
そんな手術からこの夏で丸6年になる
この6年の間に何度か
「あのとき検査に行っていれば
手術が間に合ったのにね」
みたいな会話を交わす夢を見て
ゾッとした
途中で夢だと気づけるときと
信じ込んで後悔する回があった
無念に悶えながら目を覚まし
誰にも言わずにホッとしたものだ
あの6年前
S字結腸あたりの
なんでもない箇所が
違和感を知らせてくれなかったら
俺は手遅れになるまできっと
放っておいた自信がある
そしてきっとその世界の俺は
今 うたっていないだろう
選択や偶然が違う
パラレルなワールドがいくつもあるのなら
コロナ禍が終わりつつある現在
俺がもうすでにいない世界
俺がベッドにふして
人生の終わりを待っている世界
並行した世界の中でも
かなり可能性が高い
近い位置で続いてるはずの世界の俺は
この幸福な世界線の俺を見て
どう思うだろう
そんな世界の俺の気持ちを
俺は知っている
夢の中で見た終末期病棟の天井はきっと
並行した世界の俺の目線だ
左目の涙が
あちらの世界線の俺が
夢で見ているこちらの幸福な世界に
流されているものなのではないか
酒を呑みながら
そんな馬鹿げた辻つま合わせをできるのも
この世界線に生きているおかげなのだった
手術入院の前日に登った八ヶ岳の玄岳にて
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