ブトー・ブトー・レボリューション
人類の歴史は戦闘の歴史であって、その武闘の日々の中で勝ち残り精錬されてきた稀有な存在が「達人」であると前回書きました。
ところが我々が暮らしている現代の日本社会を見渡せば、幸いなことに戦闘行為とはほぼ無縁の平和で安穏な生活が続いています。
太平洋戦争の敗戦を受け憲法で「戦争放棄」を掲げて以来、80年近くの間国家間戦争は行われていず、全ての日本国民が戦争経験を持たない状態になる日も、そう遠いことではないでしょう。
認知心理学者で進化心理学者のスティーブン・ピンカー教授は、『暴力の人類史』の冒頭で
「今日、私たちは人類が地上に出現して以来、最も平和な時代に暮らし・・・暴力が減少にあること・・・は数千年単位でも数十年単位でも、また戦争から子供の体罰にいたるさまざまな種類の暴力についても見て取れる傾向である」
と述べ、それを1400ページに及ぶ同著作の中で検証しています。
あらゆる戦闘行為や武闘行為は人類の歴史の中で一貫して減少し続けており、消滅する日も近いかも知れないというのです。
食うか食われるか、生か死かのぎりぎりの線上で、毎日自分自身の戦闘技能や精神的タフネスを練り上げていかねばならない生活をしている人は、現代ではごく一部の地域や環境に限られています。
この状況の中で「達人」となることは果たして可能なのでしょうか?
そしてそれ以前に意味のあることなのでしょうか?
ヒトはその誕生当初から取っ組み合いなどの武闘的コミュニケーションを続けてきたと思われますが、その一方で歌い踊る音楽的舞踏的コミュニケーションも欠かせないものでした。
認知考古学のパイオニアであるスティーヴン・ミズン教授は、ネアンデルタール人たちは言語を持たずHmmmmm(ヒムーン)という歌によって感情の表現やコミュニケーションをしていた、と著書『歌うネアンデルタール』の中で言っています。
言語を発達させる以前のヒト社会では、声の響きに身振り手振りを交えることで、自分の心の内を表現し伝え合っていたのだということです。
肉体の動きによって表現する舞踏的コミュニケーションの歴史は人類と共に古くまで遡りますが、さらに言えば、鳥や昆虫などにもダンスによるコミュニケーションが見られることから、生命そのものに内在している原初的な運動なのだと言えるかもしれません。
舞い踊り歌うことで通常の意識状態から離れ、非日常の世界に入って精霊たちと共に遊ぶことは、人類共通のユニヴァーサルな宗教であったアニミズムの社会では、ごく自然に行われていた習慣だったのではないかと思われます。
そして祈りや願いを通して神々と交流する人類最初の専門家であるシャーマンたちは、舞い踊り歌ってASC(変性意識状態)を実現させ、そこに他のメンバーたちの魂を共振共感させることで部族社会を牽引していました。
農耕革命や定住化、文明化を経てからも、地球上のあらゆる部族や民族は固有の身体表現法を持ち、言語以上に重要なものとしてノンバーバル・コミュニケーション技法を発達させてきました。
ダンスを表すdance(英)、danse(仏)、danza(西)tanz(独)という言葉は、みなインド・ヨーロッパ祖語のtan(伸ばす)を語源としています。
ヨーロッパのダンスもインドのダンスも、その源流をたどれば一つのものに行き着くのです。
インドで作られた世界最古の演劇理論書であるナーティヤ・シャーストラには、神話によるその起源から、ラサと呼ばれる感情表現の手法や動作、化粧や衣装、歌や楽器、さらには劇場空間の造り方まで、演劇と音楽、舞踊に関するありとあらゆることごとについて記されています。
現在でも南インドのケーララ州では、ナーティヤ・シャーストラに基づいたクーリヤッタムというサンスクリット劇が上演されています。
ナーティヤ・シャーストラでは70種類の眼の動きや67種類の手の型にそれぞれ名前がつけられており、クーリヤッタムの舞台では眉毛や頬の微妙な動きやムドラと呼ばれる手話言語などで感情や状況を物語ります。
クーリヤッタムの演者は毎日眼球の動きの練習だけで数時間を費やしており、表情の可能性を極限まで追求する身体表現の「達人」です。
舞踊や舞踏、歌唱や演技などは武闘と同じく「肉体の動き」を通して行う表現であり、「からだ」の使い方を極限まで追求するための厳しい練習や修行の果てに到達しうる、精神性と身体性の統合の境地を目指している点で共通しています。
これらの身体技術はどれも人類の進化や進歩と共に発展し、洗練され、世界中に無数の「達人」たちを誕生させてきました。
武闘の達人になるためには生と死の間を戦い続けることが必須となりますが、舞踏の達人になるにはからだの発する声を観ずるままに気持ちよく動くよう練習を積み重ねればいいのです。
誰もが平和の中で暮らしていられる時代に我々は突入しようとしています。
武闘技術や格闘技術は、生きていくにあたってはほぼ不要なものとなりました。
しかし自然が与えてくれた身体性という宝物をおざなりにしてしまうのは、あまりにも勿体無い話だと思います。
からだの声を聞き、からだが動きたいまま動きたい方向に動かし、からだの気持ちよさを感じることは、肉体を持って地上に降り立った私たちが得た大いなる特権です。
からだの持つ能力を使い切ることができるのは、何も戦いの場だけとは限りません。
からだのオペレーションを武闘モードから舞踏モードへとシフトチェンジし、平和的な使い道を追求していくことで、達人への無血革命が達成できるのです。
武闘から舞踏へ、ブトー → ブトー・レボリューションの実現です!
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