融合 トランスパーソナルとホロトロピック
アブラハム・マズローは、ジークムント・フロイトによって創始された精神分析を心理学の第一勢力、意識ではなく行動を研究対象とする行動主義を第二勢力とした上で、自身の提唱する人間性(ヒューマニスティック)心理学を第三勢力と位置づけましたが、その晩年には第四の勢力として、トランスパーソナル心理学を誕生させています。
人間の成長が自己実現のステージを越え、「超越者」の域にまで達することを予見したマズローは、その高次の意識レベルに対応するため、それまでの心理学の枠組みを超えた新しい領域を対象とする研究の必要性を感じたのです。
マズローは1967年、「人間の潜在的能力のさらなる到達点」と題した講演で、「個」を越えた新たな心理学の誕生を宣言し、同年チェコスロバキアからアメリカに移住して来た精神科医のスタニスラフ・グロフらとともに、トランスパーソナル心理学会の設立を準備しました。
グロフはプラハのカレル大学で、3000件以上のLSDセラピーを施しており、多くの患者の記憶が出生時から子宮内、更には受胎前にまで遡ることを発見していました。
動乱直前のチェコを離れて渡米しマズローと出会ったグロフは、ヒトの意識が存在する広大な領域についての知見と可能性を共有して新しい学問分野の立ち上げに合意し、ウィリアム・ジェイムズやカール・グスタフ・ユングの使用した言葉から、「トランスパーソナル・サイコロジー」と命名しました。
ところがその翌年の1968年には、LSDを用いた医学実験が禁止されたため、グロフは薬物を使わずボディワークによってヒトを変性意識状態へと導く方法を探究することにしました。
カリフォルニアのビッグサー海岸にあるエサレン研究所で、グループセッションを積み重ねることで開発された、このグロフの新しい技法は「ホロトロピック・ブレスワーク」と呼ばれます。
ホロトロピックとは、ギリシャ語の「holos=全体」 と「trepein=向かって進む 」という語を組み合わせた言葉で、「全体性に向かう」という意味の造語です。
ホロトロピック・ブレスワークでは二人一組となり、普段より深くて早い特殊な呼吸を音楽のリズムに合わせて意識的に行うことで、まずからだとこころが融合し、こころの奥深くに仕舞われている過去や出生時の出来事を再体験します。
ストレスフリーの子宮内から、強制的に狭い産道を通り抜けさせられた出生時の体験は、根源的トラウマとなってその後の人生に大きく影響を与えている、とグロフは言います。
人間の暴力性のルーツは、この処理しきれていない未完のゲシュタルトにあり、ワークセッションで再誕生を経験することで処理が完了すると、それまでに比べより平和的で共感的な感情が優位になるようです。
様々なセラピーを受けても解消されなかった手強い心身症状が、出生の再体験をすることで、しばしば劇的に改善されることをグロフは報告しています。
このクスリに頼ることなく意識を拡大させる実践的ワークは、ネイティブアメリカンのシャーマンたちが行っている変性意識状態への導入法に、ヨガや瞑想法などのメソッドを組み合わせることで創り出されました。
そこでは個々の意識は自意識から無意識を通して全体性へと向かって行き、「個」としての自分自身を越えた領域へと進んで集合無意識へ至り、根源的意識と融合を始めます。
ヒトのこころの本来の在り場所である、トランスパーソナル(超個)な次元に戻って行くのです。
トランスパーソナル心理学会設立翌年の1970年、マズロー は心臓発作のため亡くなりましたが、その研究はグロフをはじめ、ロベルト・アサジオリやケン・ウィルバーらが引き継ぎ発展させています。
彼らは人間の成長には限りが無く、「個」の完成は決して人間としての最終的なゴールではないということを世界に知らしめました。
そして彼らの理論を基に、心身に向き合い融合させるためのボディワークや、「個」であることを超えるための実践的な手法が次々と生み出され、世界各地でワークショップやセラピーが行われています。
自己を「超越」し他者や周囲の世界と融合した心理状態は、仏教や道教、ヒンドゥー教などの伝統的宗教に示される教えと共通し、ライプニッツやオルダス・ハクスリーが言うところの「永遠の哲学」とも通じ合います。
トランスパーソナル心理学は西洋の心理学や精神療法と、東洋の宗教思想や修行システムを結びつけ、融合させる試みであると言えるでしょう。