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ソシエテ!えらいひと

この章では「社会的健康のなりたち」ということをテーマとしているのですが、そもそも「社会」とは何でしょう?
日本語の「社会」は英語の「ソサエティsociety」やフランス語の「ソシエテ société」の訳語で、明治の文明開化とともに西欧世界から輸入された概念です。
ソサエティに社会という言葉を当てはめた経緯については次回以降に譲るとして、ここではソサエティというものの成り立ちについて書こうと思います。
 
Societyやsociétéという語は、ラテン語のsocius(仲間)に由来するsocio-という接頭辞を持ちます。
Socius はインド・ヨーロッパ語のsekという、「ついていくこと」や「追うこと」を意味する語根から派生しています。
つまり元々societyは「少数の仲間と連み合う」という、閉じた社交性の意味で使われており、associate(仲間)やsect(分派)などと同じような意味合いだったようです。
それが17世紀頃から、人々の集合の総体を表すように変化していき、部分社会ではなく全体社会を意味するようになっていきます。
例としてフランス語のsociétéに関連するsociabilitéという言葉は、当初は「社交性」を意味していましたが、18世紀には日本語で言う「社会性」を指す言葉へと変化しました。
 
国立民俗博物館教授の竹沢尚一郎『社会とは何か』によると、社会というものの捉え方には2種類あり、一つは人間の誕生とともに存在した「社交・人間関係としての社会」で、もう一つは近代になってから生まれた「国家と広がりを同じくする社会」だということです。
後者の「社会」が発明された背景としては、資本主義経済が誕生しつつあった17世紀ヨーロッパ世界においての、自由で平等な「個人」の誕生があり、個と共同性の背反を乗り越えるものとして、新たな概念が必要とされたのだと言います。
市民革命によって絶対王政が崩れていく中で、「王権は神から付与されたものである」というそれまで信じられてきた王権神授説に代わり、国家を権威づけるためのオルタナティブな概念として、「社会」は国家と同じ広がりを持つものであると再規定されました。
そして個々の市民が社会契約を結ぶことを通じて、共同性を実現するという考えが生まれたのです。
 
トマス・ホッブスは1642年の著作『市民論 De Cive』で、「各人が各人に対する戦争状態」となることを避けるためには、「各人が固有の権利を放棄して第三者たる政体=コモンウェルスに移譲するための社会契約が必要になる」と述べました。
ジャン・ジャック・ルソーはホッブスの理論を批判的に継承し、1762年『社会契約論』で「各構成員は自己をそのあらゆる権利とともに共同体全体に譲り渡す」が、「同じ権利を構成員から受け取らない事はないので、各人は喪失したすべてのものと同じ価値のものを得、さらに自分の持つものを保存するために、いっそう多くの力を獲得するのだ」としています。
ルソーと同時代のル・トローヌは1777年『社会秩序論』において、自然秩序に乗っ取って社会秩序を構築することを目論むフィジオクラシーを前提として、社会全体に適用可能な秩序のあり方を推進しました。
ここにおいて社会は、不特定多数の人々の契約によって成り立つものとして、自然秩序にも相当する、人間界全体の秩序そのものとなったのです。
 
「社会」の誕生と期を同じくして、ヨーロッパ各地で「自由」「平等」「公開」の原則に基づく討議空間として「公共圏」が作られたと、ユルゲン・ハーバーマスは1962年『公共性の構造転換』で述べています。
カフェやサロン、コーヒーハウスなどで自由な対論が行われ、その言説を記録した数多くの印刷物が国家の管理外で流通し、議論された内容がヨーロッパの街街に伝えられました。
サロンやクラブ、各種刊行物に集約された議論は「公論」と呼ばれ、政府や国王も無視できないほどの大きな力を持っていきました。
このような中でイギリスでは約100年かけて市民社会が熟成し、フランスでは貴族、ブルジョアジー、都市民衆、農民らがそれぞれの革命を推進し、社会革命を実現したのです。
ラファイエットやフランクリンなどもこれらの討論に参加しており、アメリカ独立の機運を盛り上げることにも貢献します。
 
19世紀に入ると、多数の社会思想化が現れ、近代社会の自己意識としての社会学が誕生します。
サン・シモンは「社会は単なる生者の寄り集まりではなく、一つの全体であり、あらゆる部分が全体の進行に様々な仕方で寄与しているところの真に有機的に組織された機構である」と述べ、社会認識を革新する先駆者となりました。
ピエール・ジョセフ・プルードンは、市民の自由な結合による「アソシアシオン」を連合させることにより、国家は自ずと不要になると考え、アナーキストの祖となりました。
オーギュスト・コントは、数学・天文学・物理学・化学・生物学と発展してきた科学的実証主義の最終段階として、「社会有機体」を全体として捉える新しい科学の必要性を説き、社会学の祖となりました。
 
このように社会という概念は部族内の人間関係から始まり、近代には国家と同じ広がりを持つものとなりましたが、現在では国家の枠を超え、地球的な広がりを持つ人類共通のものとして考えられるようになりつつあります。
次回以降にはそのことについて書きたいのですが、まずは日本が社会という概念をどう受け入れたか?について触れたいと思います。

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