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太古の達人と武道の達人

前回あらゆる運動やスポーツ、身体アクティビティにとって「ゆるんだからだ=ゆるから」であることがまず大切で、一流プレイヤー(達人)になるためには一定時間のデリバレイト・プラクティスが必須となると書きましたが、今回はその例を紹介しようと思います。
武道=マーシャルアーツの身体操作についてです。

マーシャルアーツはヒトの肉体の運動によって行うコミュニケーションであり文化で、その歴史は人類と共に古くまで遡ります。
そもそも相撲やレスリングのような取っ組み合いは、猿や犬など社会性を持った哺乳動物にも日常的に見られる、本能的で原初的なコミュニケーション行為です。
ヒトの社会でも太古の昔から、取っ組み合いや殴り合いは絶えることなく行われ続けてきたに違いなく、そうした日常の競い合いの中で腕力(=運動コミュニケーション力)の強さを認められた者の中から、その集団のリーダーが選ばれていたのではないでしょうか。
他の部族集団との交渉ごとや揉めごとに際して、代表となるリーダーの押し出しの良さやその背景となる実戦時の戦闘力は、侵略行為や戦争行為の抑止力として有効に働きます。
また運動コミュニケーション力は狩猟の際には必要不可欠となるもので、部族メンバーに分け与えられるタンパク源の量に直結する貴重な能力です。
捕食者であると同時に被捕食者としても、野生動物に対して食うか食われるかの闘争を繰り返し、ぎりぎりの戦いを勝ち残ることで所属する部族社会を守り、その結果としてヒトという種を存続させてきたのが我々の祖先だったのです。

誕生以来数百万年という果てしない戦いの歴史の中で、ヒトは個々の格闘技術を研鑽させつつ、武器を発明してより強力なものに進化させ、また集団による戦法を開発・発達させてきました。
自然の中に突如起こる危険の芽生えを察知できるよう常に五感を研ぎ澄ませ、より大きく重たいものを持ち上げ動かすための筋力を鍛え、より強い敵と戦えるよう格闘センスを磨き上げることが、我々の祖先たちの日常茶飯でした。
感覚応答を常にオンにしておくために「ゆるから」状態がニュートラルポジションとなり、日々の生活行動が即ちデリバレイト・プラクティスでした。
このようにマーシャルアーツはヒトが文明を持つ以前に自然発生的に始められ、そこには必然的に無数の「太古の達人」たちが誕生していたものと思われます。

一方「武道」という概念は明治大正期の日本で、柔道・剣道・弓道などの総称として使われ始めたものです。
ヨーロッパ文明を取り入れた文明開化の日本では、武士という武闘の専門階級が解体され、江戸時代まで盛んだった「武術」や「武芸」は、外来スポーツに押されて急速に廃れていきました。
1881(明治14)年に東京大学文学部を卒業し、学習院の講師となった嘉納治五郎はそのことを憂い、在学中に習い始めた「柔術」を基に「柔道」を創案して、伝統武芸を近代化し新しい社会に適合させようとしました。
柔道は「体育法」、「勝負法」、「修心法」を合わせ持つ心身育成法であるとして、嘉納は文部大臣らに対して講演し、新時代の日本人の精神的身体的礎として定着させていきます。
嘉納が講道館を設立した1882年には、江戸の無血開城を成功させた元幕臣で、勝海舟、高橋泥舟とともに「幕末の三舟」と称された山岡鉄舟が春風館を開館し、一刀流剣術と共に禅の精神を指導して、江戸の剣術から近代剣道への橋渡し的役目を果たしました。

1895(明治28)年には平安遷都1100年を記念して京都に大日本武徳会が設立され、柔術、剣術、弓術、槍術、薙刀の演武会を開催し、667人の武術家たちが参加しました。
武徳会は平安神宮内に武徳殿を建て、皇族や内務官僚、警察などを通じて広く全国から会員を集めて、10年後には100万人を超える大組織に成長していきます。
1899年にはアメリカで学びクエーカー教徒となった新渡戸稲造が、英文で書いた『Bushido: The Soul of Japan』をフィラデルフィアで刊行、セオドア・ルーズベルト大統領らに大きな感銘を与え、ドイツ語やフランス語などにも訳されて西欧各国でベストセラーになりました。
1908年にその日本語版として『武士道』が翻訳出版されると、たちまち国内でも大人気となり「〇〇道」ブームが巻き起こります。
1914年には大日本武徳会で嘉納治五郎が全部門委員を統括する委員会委員長に委嘱され、「柔術」「剣術」に代わって「柔道」「剣道」の名称を使用するよう明文化されました。
こうしてそれまでのさまざまな「武術」は、単に戦うための「技術」ではなく、人としての礼儀を伴う「道」であるとして、「武道」と呼ばれるようになったのです。

武道の源流としての「武術」や「武芸」は、『日本書記』にある野見宿禰と当麻蹶速の力比べや、『魏志倭人伝』に記されている倭国独特の長弓射法のように、日本の歴史と共に古く遡ります。
そして武芸の歴史を紐解くと、そこには数知れぬ達人武術家兵法家たちの姿が現れてきます。
室町時代には「兵法三大源流」と呼ばれる念流、陰流、神道流が創始され、念流からは伊東一刀斎や山岡鉄舟、陰流からは上泉信綱や柳生宗矩、神道流からは塚原卜伝や國井善弥など、各流派の流れを汲む数々の剣の達人を輩出してきました。
剣術家以外でも、嘉納治五郎をして「これぞ真の柔道だ」と言わしめ55歳で34歳の元大相撲力士天竜を投げ飛ばした合気道元祖の植芝盛平や、60歳を過ぎていながらボクシング東洋フェザー級チャンピオンのピストン堀口を手玉に取った琉球唐手の本部朝基などをはじめ、「武道の達人」が綺羅星のように現れ出ています。
彼らは文明時代を生きながらも、太古の達人たちと同じように、いついかなる時何事に遭っても対処できる「ゆるから」からの身体操作を、毎日のデリバレイト・プラクティスによって培ってきたのでしょう。

人類文明の歴史は闘争と戦争の歴史に他ならず、スーダンのヌビア砂漠で見つかった1万5千年前の大規模戦闘の痕跡以来、まさに争いの反復練習と呼ぶにふさわしいものでした。
世界の片隅に位置し比較的平和な島国だった日本でも、鎌倉・室町から戦国時代にかけての武士の時代は、争いの絶えない動乱の日々でした。
そうした「生と死が隣り合った」文化風土の中で培養されてきた身体技術的かつ精神的なエッセンスが、昇華され結実したものが「武術」であり「武道」です。

剣聖・伊藤一刀斎は「身体に備わる機能を使うことが剣の妙機」だと記しています。
からだが生来持っている可能性を、最大限に引き出して使えるように修行することで、ヒトは達人になるのだということです。
そこでは半端な修行は却って仇となり、たちどころに命を落とす結果となります。
太古の祖先たちと同じように、生に転ぶのも死に転ぶのも紙一重の環境下において過酷で厳しい修行を続け、からだOSをアップデートさせることができたごく少数の者だけが勝ち残り名を残したのだと言えます。
だとしたら平和な社会で安穏に暮らしている我々現代日本人にとって、達人化は望めない話なのでしょうか?
それを次回書きたいと思います。

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