直立二足歩行
ヒトは地球上に現存する生き物の中で唯一、背骨と後肢を垂直に立てた状態のまま移動する、直立二足歩行を可能にした動物です。
ヒトの始祖がなぜそんなことを始めたのか?については、百家争鳴で決定的な学説はなく未だ定かではないようですが、他の類人猿たちとヒトとの区別については、「直立二足歩行という一点をもって判断する」ということで百川帰海しています。
脳の容量ではチンパンジーと同程度のアウストラロピテクスやパラントロプスが、ヒトの仲間であると見做されているのは、骨盤や下肢の骨格が直立二足歩行に適した形になっていたからです。
ヒトは直立二足歩行をすることで、頭部を真下から垂直に支えることができるようになったため、脳を桁外れに巨大化させることが可能となりました。
また前肢がからだを支えたり移動させたりする役割から解放されたため、自由に働けるようになり、物を持って運んだり、投げたりすることができるようになりました。
ヒトの祖先はこの二つの変化によって、石器などの道具を創り出し、火をコントロールして食べものを調理することで摂取可能な栄養源を増やし、仲間たちとの複雑なコミュニケーションシステムを発達させたのです。
しかし重たい頭をてっぺんに乗せている体勢では、重心の位置が高くなるため、真っ直ぐ立っている時こそ安定していますが、さまざまな動作に合わせてバランスを保つのが難しく、転倒しやすいという欠点があります。
二足歩行することには高レベルの身体能力が要求され、コントロールできるようになるまでには長時間の努力が必要となります。
幼少期のヒトが過ごさなければならない十数年という運動習得期には、あちらこちらにからだをぶつけたり転んだりし続け、命に関わる危険な目にも度々遭遇します。
四つ足動物であれば、胸部や腹部の内臓を、前肢と後肢という4本の柱の間に張り渡した背骨から吊り下げることで、安定的に保持できます。
ところがヒトは、本来は梁として機能していた背骨を垂直に立てて柱としてしまったため、内臓をそこから直角にぶる下げ骨盤で支えるという、アクロバティックな形にせざるを得なくなりました。
内臓下垂や鼠蹊ヘルニア、痔といった、四つ足動物には見られない、ヒト特有の病気をもたらす原因をつくることになったのです。
胎児を守り育てるための胎内空間や産道も、四つ足時代に比べて狭くなったため、新生児はまだ未熟な状態のまま出生することを強いられ、出産自体も難事業となってしまいました。
先史時代の死産率や妊産婦死亡率は、資料がないため想像するほかはないですが、近代医療が定着する以前の社会では、女性にとってお産はまさに命がけの大イベントでした。
平安時代の『栄花物語』に描かれた出産シーンを見ると、妊産婦47人中11名が出産のために死亡しており、死亡率を計算すると23.4%にもなります。
これは妊産婦死亡率0.005%の現代日本から見れば、想像を絶するほど高い数字です。
また古代ローマ帝国では1歳未満で亡くなる乳児死亡率が30%に上っていたという記録もあります。
20世紀以前のヒト社会では、子供をたくさん産んでそのうち何人かが成人すればそれで良いという「多産多死」の繁殖戦略が、ごく当たり前のことだったのです。
こうした数々のデメリットを抱えることになりながらも、ヒトは敢えて直立二足歩行の道を選択し、今では地球上の全ての大陸に行き渡って繁殖し、最も広く分布する生物種となっています。
この種としての繁栄を導いた要因の一つとしては、移動する時のエネルギー効率の良さが挙げられます。
二輪車が四輪車に比べて燃費が良いのと同じ理屈で、二足歩行をするヒトは、四足歩行のチンパンジーに比べて、消費エネルギーを約4分の1にまで節約できるようになりました。
サバンナで長い距離を歩いて食物を探し出し、それを手に抱えてねぐらまで運ぶには、直立二足歩行は最適な選択だったのだと言えるでしょう。
この数百万年前の祖先の大英断は、どんなに尊重しても尊重しすぎることはありません。
何しろ二本足で歩く事によって、ヒトはヒトになったのですから。
江戸時代の旅人は、一日30kmから40km歩くのが当たり前だったようです。
「東海道中膝栗毛」の弥次さん喜多さんは、江戸を出発して四日市までの389kmを12日間で踏破しています。
江戸を出発してまず初日は戸塚宿に泊まり、翌日は小田原、3日目には箱根まで、それぞれ41km、40km、16kmの行程です。
さすがに箱根山登山の日には短いものの、平地ならば40km進むのが標準的な日程だったのでしょう。
ヒトという種が持って生まれた地上動物界随一の歩く力を、つい百数十年前までの日本では、きちんと活用して暮らしていました。
この優れた能力を使わずに、お蔵入りさせてしまうのは、なんとももったいない話です。
次回は、歩き方について書きたいと思います。