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ちょい日記。2022年2月10日。石原吉郎「無関心なるがゆえの美しさ」

ゼミの14thのメンバーの多くが、さっそくnoteのアカウントを立ち上げて、まずは自己紹介から書き始めてくれてます。すごく嬉しいことです。

その流れで、私も自己紹介しようかと思ったんですが、長くなりそうなので、また別の機会に。

今日は、最近知った詩人の気になった言説を。

無感動の現場に屹立する“美”

なぜか、本屋でいろいろ立ち読みしながら、詩文芸系の本でいいものはないかと物色していたときに目に留まったのが、石原吉郎という人だった。もちろん、何も知らない。ただ、独特のギリギリの言語感覚に、何か惹かれるものがあった。

シベリア抑留体験を持つ石原が、政治に対して距離を置いたことに対する厳しい批判もある。それはそれとして、また別途考える機会もあろう。

ただ、たとえば「花であること」などは、個人的には好きな詩だ。

「花であること」
花であることでしか
拮抗できない外部というものが
なければならぬ
花へおしかぶさる重みを
花のかたちのまま
おしかえす
そのとき花であることは
もはや ひとつの宣言である
ひとつの花でしか
ありえぬ日々をこえて
花でしかついにありえぬために
花の周辺は的確にめざめ
花の輪郭は
鋼鉄のようでなければならぬ

現代詩文庫26『石原吉郎詩集』思潮社、1969年、58頁。

同じく、現代詩文庫26に収められている「肉親へあてた手紙」なども、おそらくこういった状況に遭遇した人々が他にいたのではないかとも思わされて悲痛である。

そんな石原吉郎の詩論というか、美論といってもいいかもしれない「無感動の現場から」というエッセイに、すごく惹かれた。

フランクルの『夜と霧』を引きつつ、極限状態で感動という心の動きが喪われた状況において、「無責任きわまる美しさ」に対峙せざるを得ない事態について、石原は述べる。

極度に無感動をしいられた環境で、唐突に、そしてひときわ美しく自然がかがやく時がある。その美しさは、その環境にとってはむしろいぶかしい。「どうして」という問いは、そのいぶかしさへのまっすぐな反応である。たぶんそれは、無関心なるが故の美しさという、ある種の絶望状態への反証のようなものであろう。およそ人間に対する関心が失われても、なお自己にだけは一切を集中しうるあいだはこのような問いは起(こ)らない。自己への関心がついに欠落する時、そのとき唐突に、自然はその人にかがやく。あたかも、無人の生の残照のように。

「無感動の現場から」『石原吉郎セレクション』岩波現代文庫、2016年、61頁。

私は、もちろん石原吉郎のような窮極的な状況に追い込まれたことは、おそらくない。仮に、追い込まれていたのに気づいていないとしたら、やはりそこまで窮極的ではなかったのだろう。にもかかわらず、この石原吉郎のいう「無関心なるが故の美しさ」という事態は、何となくではあるけれども、わかるような気がする。

現代詩文庫26の裏表紙にある山本太郎(元俳優で政治家のその人ではない)の短評が載っている。

僕は石原さんの詩の、断言に近い口調のきびしさに感動するが、あの内律性の音響は、人間の孤立を極限値で計ろうとする凛たる虚無から発せられている。石原吉郎の詩は、作者が自ら禁じて書くまいとする一行にむかって常に屹立しているので、僕たちはそこでスリリングな公案にでくわさざるをえないのだ。

現代詩文庫26『石原吉郎詩集』裏表紙

私は、まだ石原吉郎という人の詩に触れ始めたばかりだ。なので、その作品を評するというところまで読み込めてはいない。けれども、細見和之が「言葉の星座としての詩」という節タイトルで石原吉郎の詩を論じているところは、まさにと思わされるところがある。

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さて、これは「ちょい日記」なので、何かの結論を出すつもりはありません(笑)ふと思ったことを、つらつらと書くためのカテゴリーなので。

だから、ゼミのメンバーも好きな作品(商品でも)のよさについて、取り留めなく書いてみたりしてみてね。

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