動的に「ととのう」
5月9日の夜、こちらにお招きをいただいて議論させてもらいました。
このテーマって、最近はあまり議論されることもなくなってしまったように思います。昨夜は採り上げるのを忘れてましたが、CSV(共有価値の創造)などの議論もあるので、関心を全く持たれてないわけでもないですが、ギョッとさせてくれるくらいの視座が示されることは少なくなってるかもしれません。
もちろん、私がそんな目を瞠らせるようなことを言えるわけもありませんが、(いちおう)経営学史を専門とする研究をしているわけですので、その観点から議論に参加させてもらった次第です。
1. 利益とは?:成果の範囲をどこに設定するか
「おい、もうこんなことは決着した問題やないか」と突っ込まれることは明らかなのですが、しかし、これほどボワっとした概念もそうありません。
実際、〇〇利益という言葉が会計帳簿上でもたくさん出てきます。例えば、粗利益と純利益ではかなりの差があるのは、感覚的にもおわかりいただけるかと思います。
ということは、利益最大化 / 極大化といっても、利益という概念で示される成果量の範囲を定義しなければならんわけです。
例えば、伊那食品工業の相談役である塚越寛さんは、利益を「ウンチ」だとおっしゃられてます。これは、悪いものとしての喩えではなく、栄養分をそれぞれに分配したあとの残りという意味合いです。
ちなみに、この記事は以下の単行本に収載されています。おもしろいので、ご一読を。
実は、私のnote記事ではおなじみの(笑)ニックリッシュは、かなり変わった利益概念を提唱していました。
収入から外部への支出(これをKostenと呼んでいるのも、普通ではないw)を差し引いた残額を経営成果としたうえで、すべての構成メンバーの貢献に対する分配をしたあとの残額を〈利益〉と呼んだのです。すべて、ということは出資者も含みます。しかも、企業それ自体もまた含まれます。
これ、「は?」ってなってもおかしくないですよね(笑)
でも、ニックリッシュよりはるかに有名なドラッカー(Drucker, P. F.)の利益の定義としての〈未来費用〉という考え方を想い起こせば、それほど違和感なく受け容れてもらえるかもしれません。つまり、将来的な顧客の創造のための投資のために、利益が必要なのだという理解です。
ニックリッシュは、成果獲得への貢献として、企業それ自体も含まれるという発想です。現実に、いろいろと議論になりやすい会計における〈のれん〉も、特定の資産に帰属できないけれども、企業が生み出した価値創造の淵源=資産として認識するための概念なわけです。
このように考えると、企業の成果をどの範囲に設定するかというのは、きわめて状況依存的であるといえます。したがって、どの成果基準が優れていて、どれが優れていないなどと一概に判断するのは難しいわけです。
そう考えると、より重要なのは「成果を何に使うのか」という視座です。それによって、成果の範囲も決まってくるからです。そこで、次の節では、成果の使用という問題について考えてみたいと思います。
2. 成果使用と資金運動
そもそも、企業とはどういう存在なのでしょうか。
もちろん、いろんな考え方がありますが、ここで参照したいのがシュミットの企業用具説です。
これについては、この記事の3に書いたので詳細は略します。
シュミットの企業用具説でいちばんおもしろいと私が感じているのは、企業を維持・発展させるために〈成果の使用 Erfolgsverwendung〉に関する意思決定が重要だという視座です。具体的には、成果の分配、投資、留保の3つです。
以下述べることはシュミットが言ったというより、私が敷衍している点もあります。
成果使用に目を向けるということは、企業とステイクホルダーとの関係性(最近の言葉でいうなら、エコシステムと言うてもいいと思います)を含めた企業の将来的なあり方(質的な展開という意味で“発展”)を構想し、その実現のための道筋を描き出すということです。
つまり、ステイクホルダーと企業の相即的発展です。これなしに、企業の発展はありえません。
私がお目にかかった優れた経営者の方は、このあたりを自然と意識され、また実践しておられます。
この考え方を徹底すると、ニックリッシュ➡︎コジオール➡︎シュミット➡︎シュミーレヴィッチと続く収支計算的視座(pagatorische Perspektive)と給付計算的視座(kaluklatorishe Perspektive)の統合的な計算思考と結びつきます。
もともと、収支計算的視座は財務会計に、給付計算的視座は管理会計に結びつくのですが、そこに生じる差異も含めて資金運動を把捉するところに、彼らの計算思考の特徴があります。
この統合的な計算思考を日々の企業活動の記録に活かすって考えると、そこにはステイクホルダーとのやり取り(価値交換関係)と、獲得した&保有している資源を活用した効用創出活動(価値創造過程)を継起的に捉えるって営みの可能性が生まれるかなと。
これは、上場企業の場合の定期的決算業務や、すべての企業の場合の税務のための定期決算業務と別個の計算として考えることができます。もちろん、無関係なのではありません。ただ、企業過程(企業の動的な把捉)という点では、いったん切り離して考えてもいいでしょう。
その過程的記述には、資金の流入と流出、それに対応する給付提供&享受、その相手としての過去のステイクホルダーがあらわれます。さらに、事後に効用をもたらす可能性にもとづいてなされる資金使用としての投資も、ここに記述されます。投資の場合も、将来において誰にどんな効用をもたらすのかが構想されていなければなりません。かくして、ステイクホルダーとの関係性が織り込まれた(明記された)資金運動があらわれてくるわけです。
ここにこそ、企業のありようが浮かび上がります。この視座はニックリッシュ➡︎コジオール学派に特徴的で、かつドイツに限定されず援用可能であると私は考えてます。
というのも、おカネの獲方&使い方に企業の姿勢があらわれると考えるからです。
では、企業は何をめざして活動しているのでしょうか。この点について、次節で考えてみましょう。
3. 企業の目的は利益の最大化か?極大化か?それとも他の何かか?
この日のおもハックのテーマは〈利益〉でしたが、焦点は「なぜ、企業は利益を最大化しようとするのか」でした。ここで〈最大化〉と〈極大化〉は厳密に考えれば、異なります。というのも、極大状態というのは不可知性から免れえない人間にとって、まさに知りえない状態だからです。〈最大化〉というのは、制約条件下での最大化ということがありうるので、人間にも可能です。
となると、言葉に厳密になるなら、企業の目的を〈利潤極大化〉と措定するのは、理念型としてはありえますが、現実の目的設定とはなりえません。
利益と利潤も本来は厳密に分けるべきですが、ここでは議論が複雑化してしまうので、ほぼ同義と捉えます。ちなみに、1でも考えましたが、ここでは純利益を利益 / 利潤と捉えます。
ただ、利益をできるだけ最大化したいというのは、現実としても目的あるいは目標としてありえます(←目的と目標は別です)。たとえば、自分が持っている資産を活かして、最大限に増殖させたいという目的で何か事業を始めるという事態は、何ら珍しいことではありません。
ただ、すべてにおいてそれが当てはまるのかというと、そういうわけでもないでしょう。
たとえば、「これこれこういうことがしたい!」という事業構想が先にあって、それを持続的に成就することが目的となる場合もあります。その場合、利益の最大化は目的ではないけれども、目標の一つとなることはありえます。
一方で、最大化ですらなく、満足水準を達成すればOKという発想もありえます。これが〈満足目標〉と呼ばれる考え方です。満足化原理というのは、サイモン(Simon, H. A.)によって提唱されたものですが、サイモンの満足化原理はどちらかというと制約条件下での最大化追求なので、積極的な意味での満足化ではないといえるかもしれません。
非上場企業などの場合、達成すべき成果水準があって、それをクリアできていれば問題ないとする考え方も、当然ながらありえます。
ただ、その場合でも、人間の不可知性(情報の不完全性 / 知識の非完結性)ゆえに満足目標というのも確定的なものとして捉えることはできません。
実は、この「先が読めない」というところにこそ、人間が最大化を希求する原因があるのではないかと、私は考えています。つまり、人間は「どれくらい成果を獲得すれば、次期以降の事業の継続に足りるのか」が確たるものとしてつかめないわけです。その不安が、最大化を促すのではないかと考えています。
もちろん、もとより最大化・極大化を希求する人もいます。
その意味において、善悪の問題としてではなく、成果獲得量の増大を求めるという姿勢は、そう簡単に否み、捨て去ることができないように思います。
じゃあ、みんなが最大化をめざせば、自然と調和的に成長や発展が実現されるのか。残念ながら、かのバーナード・デ・マンデヴィルの『蜂の寓話』をそのまま現代にもってくることは難しいと言わざるを得ません。
だからといって、私は規制を多く設けるべきという発想ではないことを、念のため、申し上げておきます。どちらかというと、オーストリア学派経済学に共感するところは多分にあります。ただ、メンガー『国民経済学原理』第2版でも意識されているくらいで、その後のオーストリア学派にはあまり受け継がれませんでしたが、協働の問題をどう位置づけるのかが、オーストリア学派経済学と経営学の接点になりうると考えています。拙いものですが、以前にこんな論文を書きました。「動態的主観主義にもとづく企業理論の可能性」というタイトルです。
そうなったときに、〈エコシステム〉という考え方が生きてくるように思うのです。
人間がすべてを知ることはできません。したがって、不完全かつ非完結です。そのなかで、可能ならば多くを得たいと思うことも、当然ありえます。だから、それを頭ごなしに否定するのは違うと思います。
けれども、それぞれが求める価値を得ることができ、かつエコシステムとして持続的な調和が(完全にではなくても)生み出されている状態、つまり「動的にととのっている」状態を一つのめざすべき姿として措定することは、あながち現実から遊離した発想ではなく、むしろ一つの選択肢として考えられてしかるべき発想であるといっていいように、私は考えています。
おわりに。
以上、5月9日のトトノウラジオ「おもハック」で対話させてもらい、またそこから考えたことを備忘として書いてみました。
こんな愉しい機会を与えてくださったハブチン(羽渕彰博)さん、アリエッティ(有江慶彰)さんに、あらためて感謝申し上げます!