企業行動論講義note[08_b]「価値を動かすマグマ:企業発展と企業者的姿勢 / 企業者職能」企業者をめぐる議論の展開
もともと、この講義noteは[08]として書かれたものです。ただ、企業者論の展開(企業者論の学史)を説明していると、きわめて長文になってしまったので、スピンオフすることにしました。なお、講義note[08]と重複している記述もあります。また、山縣の講義ネタ帳的な側面もあります。ネタ帳をばらしてええのかという問題はありますが、同じような関心を持ってらっしゃる方がおられましたら、ちょっとでも考える手がかりとなればと思い、講義note[08_b]として公開します。
あらかじめ、ご了承ください。
企業者をめぐる議論の展開:学史的な考察
じつは、〈企業者〉という存在についての研究は、経営学よりも古い歴史があります。それどころか、経済学の成立(これを仮にケネーの『経済表』にみるなら、それ)よりもまだ古いともいえます。この〈企業者〉という考え方が知られるようになったのは、18世紀のカンティヨン(Cantillon, R.)という人の実践と著作が出発点であると言われています。
ただ、その歴史をすべてたどっていると、文字数が膨大になるので、前回も掲げた〈企業者〉をめぐる概念を整理した表を、ここでも挙げておきます。
現代の企業者概念の源流に位置づけられるのが、マーシャル(Marshall, A.)です。マーシャルは近代経済学の祖の一人とも位置づけられるくらい、経済学史でも有名ですが、経営学にとっても重要な人物です。
マーシャルは〈企業者〉の概念についても重要な見解を示しています。それについての研究もたくさんありますが、ここでは以下の文献を紹介しておきます。
ここでは、池本先生の整理に拠りつつ、山縣が付け加えた簡単な流れを図で示しておきたいと思います。ただ、これはかなり大胆に(≒大雑把に)図式化したものです。
マーシャルの企業者概念:ビジネス・リーダーとしての企業者
マーシャルは、さまざまなかたちで「企業者とは何か」について述べているのですが、ここでは彼の主著の一つである『経済学原理』で示された考え方を紹介します。古い感じがしますし、ちょっと長いですが引用します。
このマーシャルの定義は、きわめて盛りだくさんです。しかも、19世紀という状況のもとでの定義ですので、21世紀の今から見れば、かなり古色蒼然としています。しかし、第一のほうはシュンペーター(Schumpeter, J. A.)の企業者概念の中核である“イノベーション”にもつながる内容ですし、第二のほうは協働メンバーを選び、彼女 / 彼らとの関係性をどう構築するのかにかかわっています。この講義の枠組でいえば、(1)が価値創造に、(2)が価値交換につながっています*。
シュンペーターの企業者定義:新結合としてのイノベーション
企業者といえば、むしろマーシャルよりもシュンペーターのほうが有名でしょう。
そして、シュンペーターといえば、とりあえずみなさん〈イノベーション〉という言葉が思い浮かぶのではないでしょうか。ちなみに、イノベーションに関しては、今年(2020年1月)逝去したクリステンセン(Christensen, C.)の名前も最近はよく採りあげられます。
さて、ここではシュンペーターの話はさらっと済ませます(笑)
彼はイノベーションを新結合(neue Kombination)と捉えました。つまり、生産手段や生産方法などを新たに組み替えることで、今までに充たされていなかった価値を創造する(山縣の立場から厳密にいえば、「“価値提案”を創造し、享受者において価値が創造されるように、効用を提供する」)ことがイノベーションであるわけです。シュンペーターは、その組み合わせとして、以下の5つを挙げています(『経済発展の理論』〈上〉岩波文庫、183頁)。
シュンペーターは、これらによって新しい経済循環を生み出すのが、企業者なのだと考えたのです。
シュンペーターの関心は、「いつもと同じように動く」という意味での〈定常経済〉に誰がどのように〈創造的破壊〉をもたらし、新たな状態へと移行させるのかという点でした。したがって、マーシャルの企業者概念の(2)については、あまり関心を寄せていません。
今でも〈企業者〉というと、イノベーションという言葉がすぐに思い浮かぶのはシュンペーターの功績であり、また同時に副作用でもあります。マーシャルの企業者概念はトータルな観点で展開されているだけに、シャープさに欠けるとはいえるかもしれません。シュンペーターの企業者概念のほうが、明快です。社会経済全体だけに焦点を当てるのであれば、それでも問題はないでしょう。ただ、経営学の観点からすれば、マーシャルの(2)も併せて考える必要があります。この点について踏み込んだのが、ペンローズであり、ハーシュマンです。これについては、ちょっと後でお話しするとして、先にマーシャル(1)=シュンペーターの流れに触れておきます。
カーズナーの企業者概念:魅力的な機会の発見→愉快な驚き
オーストリア学派経済学のなかでも、企業者という概念について深く研究した人の一人が、カーズナーです。ただ、カーズナーの企業者概念は、シュンペーターのそれと全く同じというわけではありません。
オーストリア学派経済学というグループの研究者たち(といっても、そのなかでも考え方の違いはあります)に共通しているのは、市場を動的な過程(dynamic process)と捉える点です。シュンペーターは、それまでの均衡状態(=定常経済)から新たな均衡状態へと創造的に破壊する役割として、企業者を捉えました。それに対して、カーズナーはもともと均衡状態が存在するのではないという考え方に立ちます。そして、彼はそのような動的な状態のなかで、どこにどんな魅力的な機会が存在するのかをいち早く発見する能力を企業者的機敏性と呼びました。その結果として、均衡状態を「めざす」のが企業者であると主張したのです。
ちなみに、カーズナーはこの『企業者と市場とはなにか』において、「魅力的な機会を発見することは、つねにかなり愉快な驚きをあらわす」(訳書54頁)と指摘しています。カーズナーの関心は、あくまでも収益の獲得に向けられていますが、じつはこれ、文芸にせよ、絵画にせよ、音楽にせよ、演劇にせよ、“美”に接したときの驚きと近いものがあります。ベッカー(Becker, O.)という哲学者に『美のはかなさと芸術家の冒険性』という本がありますが、この芸術家の冒険性(Abenteuerlichkeit)に注目しているのは興味深いところです。実際に、企業者が審美性に関して、驚嘆すべき鋭敏さを兼ね備えているケースは少なくありません。先ほど、事例として挙げたマザーハウスの山口絵里子さんもまたその一人です。あるいは、イタリアで職人の技を活かし、また後世に(伝統工芸としてではなく、あくまでも産業として)残そうとするブルネロ・クチネッリもまた、同じような志向性を持っているといえるでしょう。
さて、話をカーズナーに戻しましょう。
カーズナーの企業者的発見の概念に対して、〈創造〉という側面が抜け落ちているという批判もあります。それに対して、カーズナーは「発見という行為自体が創造的である」と反論しています。また、均衡状態をめざすという点に関しても、オーストリア学派経済学はそもそも均衡という概念を否定しているのに、という観点からの批判があります。これに関しても、均衡という状態を“北極星”と捉えるなら、理解はできます。ひとは、北極星を道しるべにすることはあっても、北極星に行こうとはしていないからです。
そもそも、オーストリア学派、とりわけミーゼス(Mieses, L.)の流れを汲む研究者たちは、人間の欲望に深く入り込み、そこから人間の経済行為を説明しようとしました。そのため、利潤が得られるのは「他者を出し抜く」からであり、差別化を図るのもそのためだと説明します。これは、たしかに現実としてそう捉えることができます。しかし、そこに違和感を覚える人がいるとしても、それもまた自然なことです。
そのあたりにも留意したのが、ナイト(Knight, F.)です。
ナイトの企業者概念:真の不確実性
ナイトは“リスク”や“不確実性”といった、今では当然のように経営学や経済学で用いられている概念を精緻に提示したアメリカの経済学者です。
ナイトについても、ここで詳しく触れる余裕は残念ながらありません。ただ、ここで大事なのは、ナイトが不確実性を「確率で測定できる不確実性」と「測定不可能な不確実性」に分けた点です。彼は前者をリスクと呼び、後者を真の不確実性と呼びました。企業者という存在を理解するうえで重要なのは、後者の真の不確実性です。経済活動は、そもそも将来を見通そうとする(forward-looking)行動です。これは、「このひとたちは、こういう価値(効用)を求めているに違いない」という推定、あるいは見込みによって、さまざまな製品やサービスを創出しているという現実からも理解できると思います。
一方、これまでの講義でも触れてきましたが、価値創造はほとんどの場合、ともにその活動を担ってくれるメンバーとの協働を前提としています。ナイトも、当然この点に目を向けていたわけですが、その際、企業に生産のための活動を提供してくれるメンバーに対して、一定の安定所得を保証し、その意思決定の最終責任をとる人こそが、企業者だとみたわけです(ナイト, F.[1960=2012]124頁;池本正純[1984]180頁)。
この「先がどうなるかわからない」状況において、将来をイメージ(構想)し、真の不確実性から所得を獲得していくこと、ここにナイトが描いた企業者の姿があるのです。このような企業者像はペンローズによって、より具体化されます。
ペンローズ:将来への構想描出と新しい生産的サービスの創造
ペンローズも経済学者です。ただ、どちらかというと経営学において、よりなじみがある人といっていいと思います。
ペンローズという人は『企業成長の理論』という本によって、よく知られています。難解ですが、名著です。
ペンローズは、企業者的役割(ここでいう「役割」の原語はserviceです。いわゆる「はたらき」というような意味。訳書では「サービス」、以前の研究書では「用役」)と経営者的役割を分けています。
ペンローズが『企業成長の理論』を書いたのは1958年。この頃には、経営学もようやく理論的な蓄積ができてきつつありました。ペンローズも、こういったあたりを参照していました(バーナード、サイモン、パパンドレウなど)。
そのため、それまでの経済学では企業を“点”と捉える傾向が強かったのに対して、ペンローズは企業を〈管理組織〉そして〈生産資源の集合体〉として捉えました。
そして、このような企業観に立脚して、ペンローズは企業が成長(←質的な発展を含んでいます)していく際に、企業者的な役割がきわめて重要な意味を持つと指摘したわけです。
ペンローズは、企業者的判断を個人的な資質だけで捉えてしまうことを批判します(個人的な資質を含まないとは言っていません)。彼女は、企業者的役割について「企業の利益に資するための製品、立地、技術上の重要な変化などに関する新しいアイデアの導入と承認、新しい経営管理者の獲得、企業の管理組織の根本的な改編、資本調達、拡張の方法の選択も含む拡張の計画の立案等に関する企業の業務に果たす貢献」(訳書75頁)をさすと述べています。
ものすごくいろいろ列挙しています。受講生のみなさんは、これを「暗記」する必要はありません(笑)
ペンローズは、企業者的役割の核心にかかわる概念として〈想像力〉と〈洞察力〉を挙げています。
ただ、〈想像力〉や〈洞察力〉というだけでは説明になりません。そこで、ペンローズが述べているところにもとづいて、以下の2点にまとめておきます(『企業成長の理論』第3章をもとに)。
先ほど、ペンローズが企業を生産資源の集合体として捉えているということを指摘しましたが、モノとしての生産資源の集合という以上に、「生産資源が発揮するサービス(はたらき) / 生産的サービス」、この講義で用いている言葉でいえば〈効用〉が重要なのです。とりわけ、まだ未知あるいは利用されていない生産的サービスが存在しているという企業者の確信こそが重要であり、さらにいえば、上に掲げた2つの企業者の役割 / 企業者職能は、究極的に「新しい生産的サービスの創造」(訳書122-124頁)という点に行きつくことになります。
これらの根底には、主観的な〈期待〉があります。これは、ここまでの話でも触れてきたように企業者的姿勢の、もっとも重要な軸であると言っていいでしょう。
ここで注意しておきたいのは、ペンローズが経営陣のentrepreneurshipという表現を用いていることです。どういうことか。ちょっと見方を変えれば、経営陣ではないメンバーのentrepreneurshipもありうるということです。講義note[08]でも採りあげたように、木村石鹸での「12」の開発プロセスは、従業員による新しい生産的サービスの創造と位置づけることができます。
ペンローズは、自らをシュンペーターの流れと位置づけていますが、池本先生が指摘されるように、きわめてマーシャルに近いものがあります。ここ数年、経営戦略論の領域で注目されている〈ダイナミック・ケイパビリティ〉という考え方も、ペンローズからの影響を色濃く受けています。
ペンローズの『企業成長の理論』、容易な文献ではないですが、ぜひ一度は触れてほしい一冊です。
ラッハマン:想像力、解釈、意味づけ
個人的には、このラッハマンという人の学説、ものすごく興味を持っていて、何とか経営学にうまく摂り込みたいなと思ってます。
先ほど採りあげたカーズナーと同じく、オーストリア学派経済学に分類される一人なのですが、もともとはドイツの経済学者ゾンバルト(Sombart, W.)のもとで学び、その後、ナチスの台頭によってイギリスへ移ってハイエクのもとで学びました。1948年以降は、南アフリカに移って活躍します。
このラッハマンという人、基本的に根源的なところまでさかのぼって考える人が多いオーストリア学派のなかでも、ラディカルな主観主義と呼ばれています。ラディカルって、あえてカタカナで書いたのは、これを「急進的」と訳してしまうと、ただ単に過激的と捉えられかねないからです。むしろ、本来の意味である「根源的 / 根源から」と理解すべきなのです。
ラッハマンは、ケインズとハイエクの双方から影響を受けた経済学者であるシャックル(Shackle, G. L. S.)が重視した想像力(imagination)の概念を受け継ぎます。このあたりの議論は、ペンローズとひじょうに近いものがあります。ただ、シャックルにしてもラッハマンにしても、主たる関心は万華鏡のように(kaleidic)動く市場プロセスをどう捉えるかというところにありました。その一環として、企業者的姿勢を重視したわけです。
同じオーストリア学派でも、カーズナーは発見というところに重点を置きましたが、ラッハマンはむしろ市場を成り立たせているしくみとしての〈制度〉に目を向け、それを活動主体がどう「解釈」するのか、そして、どう意味づけするのかというところに焦点を当てました。
ラッハマンという人は、諸資本財(←これは、会計学的にみれば“資産”)の構造がどう企業者によって編成されていくのかというところにも注目しているのですが、この観点から企業者の役割を以下の4つの点に見出しています(Lachmann, L.[1956=1978])。
これは、きわめて経営学(経営経済学)的です。しかも、これらの根底に活動主体による制度の解釈や意味づけがあるという点は、ひじょうに興味深いところです。ここにいう制度とは、活動主体の行為を方向づけるようなしくみ全般をさします。この制度それ自体も、活動主体の行為によって変化していく可能性があります。
経営をめぐる諸行為を〈意味〉という観点から捉えようとする試みは、かなり古くからあります。ただ、一般的にそれらは社会学や心理学のアプローチに近く、企業をめぐる経済的行為には十分に結びつけられてきませんでした。その点で、ラッハマンの試みは、ペンローズの企業者論 / 企業成長論(企業発展論)とベルガンティの〈意味のイノベーション〉をつないでくれる可能性もあるのです。
ハーパー:知識の成長と反証的企業者
本来は、ハーパー(Harper, D. A.)によって提唱された〈知識の成長理論〉と〈反証的企業者〉についても、しっかりと考察したいところですが、ちょっと準備が整わないので、簡単にだけ触れます。
オーストリア学派のなかで、企業者論の系譜のなかでもポパー(Popper, K. R.)の批判的合理主義の考え方を企業者の行為実践の説明論理に用いようとした点で特徴があります。より具体的には、企業者は自らが持ち、活かす知識を実践のなかで反証し、それを成長させていく存在であると捉えました。これを知識の成長理論と呼んだのです。
この「失敗から学習する」というモデルは、きわめて重要な意義をもっています。なぜなら、このような学習過程こそが、企業者的ダイナミクスを生み出すからです。この図だけ見るとPDCAサイクルのように思われるかもしれませんが、現実はもっと試行錯誤的であるとみたほうがよいかもしれません(むしろ、PDCAみたいな安易な枠組に閉じ込めてしまってはいけないでしょう)。
いずれにしても、企業者的姿勢や企業者職能が企業発展に影響を及ぼすということを考えるとき、こういった学習過程を考慮することがきわめて重要であることは確かです。
ハーパーの企業者論については、上の文献の第10章、下の文献の第9章で論じられていますので、関心のある方はぜひお読みください。
ゴードン、ハーシュマン、シュミット:ステイクホルダーとの協働 / ステイクホルダーからの資源動員
ここに掲げた3名は、ほんとうならそれぞれ別個に論じられていい人たちです。が、いったんここではまとめてみておくことにします。
★ゴードン:ステイクホルダーによる企業の意思決定への影響
ゴードン(Gordon, R. A.)は、1945年に公刊した『大会社におけるビジネス・リーダーシップ』(邦訳書名『ビズネス・リーダーシップ』)で、コーポレート・ガバナンス論の学史では知られています。
ペンローズの企業者職能の定義は、むしろゴードンの影響が濃厚といってもいいと思います。上に掲げた長い定義の内容は、ゴードンの著書において、ほぼそのまま示されています。
ゴードンの著書は実証的な研究であり、現代の視点からすれば当然にも思われる内容なのですが、当時は企業における経営者支配への関心が高かったこともあり、詳細なデータにもとづく研究として重要です。
ゴードン自身は、ビジネス・リーダーシップの核心を「発案」と「(選択肢からの)採択」からなる〈意思形成〉にみています。この定義それ自体は穏当すぎて、いわゆる企業者論の学史のなかでは目立ちません。
しかし、大事なことは、ビジネス・リーダーシップがさまざまな利害関係者、現代の言葉でいえばステイクホルダーによる影響によって方向づけられる可能性があることを指摘した点です。ゴードン自身は、単独の人間をイメージさせる企業者という言葉を用いませんでしたが、企業者論にも重要な影響を与えています。
この点を企業者概念の定義に反映させたのが、ハーシュマンでした。
★ハーシュマン:企業者の〈協働 / 協同的〉要素
ハーシュマンといえば、新制度派経済学でもしばしば参照される〈発言 / 退出〉モデルで有名ですが、発展途上国での開発をめぐる研究もしていました。
このなかで、ハーシュマンはシュンペーターが重視したような企業者の〈創造的〉要素 / 側面だけでは、発展途上国での企業者的姿勢 / 企業者職能の実態を捉えることができないとして、特にステイクホルダーとの協働を進めていけるかどうかが重要だという見解を提示しました。
ハーシュマンの企業者概念は、その後の企業者論の展開でそれほど大きな影響を及ぼしたようには見受けられません。しかし、近年(といっても、もう13年くらい前ですが)のイノベーション研究において〈資源動員の創造的正当化〉という概念が打ち出されたのは、シュンペーター的な企業者職能としての〈創造的〉側面と、ハーシュマン的な企業者職能としての〈協働的〉側面とが切り離せないことを明らかにしたものとして注目されます。
★シュミット(Schmidt, R.-B.):企業用具説と企業の担い手
ドイツ経営学において、ステイクホルダーとの関係性をどう構築するのかという問題は、ニックリッシュ以来、あるいはニックリッシュ以前から重要な問題として採りあげられつづけてきました。ただ、どうしても「べき論」、つまり規範論になってしまう傾向は否めませんでした。
それを乗り越えたのが、シュミットでした。
シュミットは、もともと経営財務論の研究者です。特に、資金の流れの問題から自己金融による成果活用(成果分配の問題や投資のための成果活用の問題など)に強い関心を抱いていました。そこから、企業をとりまくステイクホルダーとのやり取りを収支の流れなどの面から考えようとしたのです。
そこで、シュミットは〈企業用具説〉という考え方を打ち出します。これは、企業を「ステイクホルダーが自らの欲望や期待を充たすための用具」と捉える考え方です。しかも、自己資本提供者(=株主)だけではなく、従業員や他人資本提供者(=債権者)、さらには顧客や取引先まで範囲に含めたのです。そして、それぞれのステイクホルダーが、自らの欲望や期待を充たそうとして、企業に参加するのだと捉えたわけです。
ただ、その際に留意したいのが、それぞれのステイクホルダーが自己の欲望や期待、利害の実現をめざしたとしても、その母体となる企業そのものが維持・発展できなければ、それらは実現できないという点です。ここから、シュミットは企業理念や企業政策(方針の策定)といった議論に進んでいきました。ここに協働が生じます。
つまり、シュミットはステイクホルダーがそれぞれの欲望や期待の実現をめざしつつも、同時に企業を維持・発展させていくために協働するという現象に焦点を当てたわけです。
シュミットは、これらのステイクホルダーを〈企業の担い手〉と呼びました。
この考え方に立つと、誰が企業のイニシアティブをとるのかは、その企業やさまざまなステイクホルダーたちが置かれている状況によって異なってくるということになります。
シュミットは、明確に企業者論として展開したわけではありません。一見すると、企業者論とは無関係であるかのようにもみえます。
しかし、現在のように〈エコシステム〉をベースとした価値創造を考えていく必要が高まっているとき、シュミットの企業用具説は、ひじょうに示唆的です。なぜなら、それぞれのアクターがいったい何を期待して、価値創造のための協働に参画しようとしているのかという点が重要になるからです。
シュミットについては、また後々の講義でも採りあげます。
★企業者職能 / 企業者的姿勢としての〈協働的〉側面
最近の新しい価値創造の考え方、あるいは方法として注目されているものの一つに〈サービスデザイン〉があります。2018年に経済産業省が打ち出した『デザイン経営宣言』においても、サービスデザインの考え方が重視されています。
〈サービスデザイン〉においては、多様なステイクホルダーとの関係性の構築、つまりサービス・エコシステムの構築が重視されます。より具体的にみれば、ステイクホルダーどうしの価値交換、ステイクホルダーそれぞれにおける価値創造をうまく循環するようにデザインすることが、ここでの課題となります。
これを考えるときに、企業者的姿勢ないし企業者職能としてのステイクホルダーからの資源動員という点は、きわめて重要な意義をもっています。あえてここで採りあげたのは、そういう意図に拠ります。
ベルガンティ:entrepreneurship / leadershipとしての〈意味のイノベーション〉
最後に、ここ数年とみに注目が集まっているベルガンティ(Verganti, R.)の〈意味のイノベーション〉について、みておきたいと思います。
ベルガンティはミラノ工科大学のビジネススクールの教授であり、かつ現在はスウェーデンのストックホルム経済大学の教授でもあります。〈デザインドリブン・イノベーション〉という考え方を提唱して注目され、そのなかでも採りあげられていた〈意味のイノベーション〉について、より詳細に論じたのが『突破するデザイン』という本です。
ベルガンティはガダマーやリクールといった解釈学を活かして、新たな〈意味〉を提唱し創出することが、価値の創造につながるのだと主張しています。
ここでの〈意味〉とは、「ある人にとっての、そのモノやコトとの関係性」と規定することができます。例えば、いささか古い例にはなりますが、腕時計のスウォッチは、それまでのような一人一つの腕時計という関係性から、ネクタイのように着替えることのできる腕時計という関係性へと、その意味を移行させたわけです。
こう考えると、〈意味〉こそが、そのひとにとっての価値判断 / 評価の基準であることがわかります。
この〈意味〉を創出することこそが重要だというのが、ベルガンティの提唱なのです。
ベルガンティ自身は企業者的姿勢 / 企業者職能という言葉をあまり使わず、むしろリーダーシップという表現を用いるようですが、この講義の文脈では企業者的姿勢 / 企業者職能として捉えることができます。
この〈意味のイノベーション〉は、もちろん顧客となってくれる人に向けて、というのがメインではあります。ただ、それ以外のステイクホルダーにとっての〈意味〉を創出することもまた同時に含まれます。
となると、この〈意味のイノベーション〉というアプローチは、企業者的姿勢を考えるうえで、きわめて重要な手がかりになることは、すぐにイメージしてもらえるのではないかと思います。
この点については、まだほとんど研究も進んでいません。私自身も、これから研究を進めていきたいと考えています。
おわりに
ということで、この講義note[08_b]では、講義note[08]の背景にある企業者論の考え方をピックアップして、その内容についてみてきました。きちんとした学史にはなっていませんが、あくまでも講義のためのネタ帳ということで、その点はご了承ください。
ただ、企業行動論の講義に少しでも関心を持ってくださった方で、もうちょい理論的なところについて深く考えてみたいという方のために、公開してみました。
これを読んで質問してきてくれる受講生の方が出てくることを、ひそかに(←って書いてる時点で、全然「ひそか」じゃないw)心待ちにしています!
んじゃ、ばいちゃ!