映画「ミラクルシティコザ」感想 "オキナワ"という土地

【ネタバレあり】

この映画が、沖縄県が日本へ復帰50年の年に公開されたのは本当に良いタイミングであったと感じる。これは「沖縄県のこれから」を、若者がどのように捉えていくかを考える契機になる映画だと思ったから。

冒頭から舞台である沖縄市、というかコザの地域性が如実にでた映画だった。
オープニングで、真っ昼間から路上で寝ている老人や、道端で立ちションをしている人など、お世辞にも治安がいいとは言えない街、コザの様子が切り取られる。そして沖縄県民である私は、これが多少誇張はあったとしても、かなりリアルなものであると知っている。コザは本当に治安が悪い。

そして、そんなコザの過去が映画の中で語られていく。米軍基地や脱走米兵。ベトナム戦争。失われた命。コザ騒動。戦後沖縄の行き場のない様々な衝動が、そこかしこで爆発していた街がコザであった。これは沖縄県の変えようもない過去である。

その衝動の爆発方法のひとつが、コザで栄えたロックンロールだった。

この映画では、そうした過去のコザの薄汚れた、でも眩しい煌めきと、今は失われたその煌めきを目の当たりにして奮起する若者の姿とが、「かつて伝説のロックンローラーだった死んだ爺ちゃんに体を乗っ取られて、代わりに自分は当時の爺ちゃんの体にタイムスリップして憑依する」という設定で描かれる。
コントラストの強いライティングや、画面の色づかいなどにも、当時のスモーキーでかっこいいコザを表現したいという想いが表れていて、魅力的だった。米軍基地のフェンスが演出として印象的に使われていたり、コザという土地ならではのシーンも多く、地元の人間には強く訴えかけられるものがあった。

映画の最後に「誰しも命を燃やした過去があるだろう。それは過去にすぎないが、その灯は確かに、次の世代に受け継がれる」(うろおぼえ)というようなモノローグがあった。私はそれを「沖縄県という土地の過去を知ることで、今の世代もきっとがんばろうと思えるし、自分のために奮起できるはずだ」というニュアンスのメッセージとして受け取った。また、この映画のテーマも概ねその点に集約していたんじゃないかと思う。

この映画はコザ、ひいては沖縄県という土地と、そこに生きる人々を敬愛して作られたのだなあと強く感じたし、沖縄の若い世代がこうした作品を作り上げたという事実そのものが、沖縄の魅力であるなあと感じて、感動したし、最後のライブシーンはべそべそに泣いた。主演2人の歌声が重なる演出もエモーショナルだった。

しかし、それと同時に、この映画が素晴らしいのとは別に、「この映画を通して得られるものに満足してしまう」ことが、沖縄県の若者がこれから考えるべき課題なのではないか、とも強く感じた。

沖縄県の大きな社会問題の一つとして「貧困」がある。「地元」に絡め取られて貧困の連鎖から抜け出せず、暴力や権力に支配された人生を送る人々が、沖縄には多く存在する。
上間陽子先生の著書「裸足で逃げる」などにも、そうした実情が記されている。加えて、昨今は新型コロナウイルスや豚コレラ、首里城火災、軽石など「観光立県」の基盤となる部分も様々な厄災に見舞われて、貧困の実情はさらに悪化しているのではないかと、肌で感じている。
もちろん、一筋縄ではいかない問題だし、絶対的な原因が存在するわけではない。ただ、私は要因のひとつに沖縄県の「内向きな精神」よく言えば「地元愛」があるのではないかと思う。「沖縄」という内輪を、盲目的に愛し過ぎているのではないか。

沖縄県のローカル番組の雰囲気が、私はすこし苦手である。楽しげな雰囲気の中に、どこか排他的な空気を孕んでいる気がするから。なんとなく、ホモソーシャルの文脈が強く残っているように思う。もちろんそれは、どこの地方にも共通する雰囲気なのだろうとも思う。ただ、沖縄県は特にアイデンティティの確立を重視するあまり、ノーマライゼーション的な思想が歓迎されないように見える。
この映画でもコミカルなシーンのセリフや演出は男性のジェンダー的価値観を基盤にしたものがほとんどで、(それがあくまで今作の制作側の好みの問題ではあるとしても)その雰囲気には「沖縄っぽさ」を感じた。県外からみた沖縄県のイメージに「寛容さ」が挙げられることがあるが、それは言ってしまえば「大雑把さ」であり、かつ「配慮のなさ」でもある。

映画では、コザの再開発を目指す不動産屋の男が悪役として登場する。"美人秘書"を引き連れて、現状のコザの治安の悪さを憂い、飲み屋街を潰して大型施設を建設するという展望を語る様子が、露悪的に描かれていた。
「地方復興」をテーマにする作品では定番の構図だが、現代の実情としては「大型ショッピングモール」も地域社会と連携しないと生き残れない状況であり、こういった「商店街vsショッピングモール」は、あくまでフィクションの構図と化している。
が、沖縄県には未だにこうしたイメージを持つような「新しいものを忌避する」風土が強く、だからこそこうした設定が採用されたという面もあるのではないか。

コザの治安(および沖縄県全体の繁華街や一部の米軍基地を擁する市町村などの治安)が悪いのは事実だが、それを改善しようとすることそのものを、沖縄を愛するあまりに、よくないイメージで捉えているような印象を受けた。あるいは「商業的な部分などの『権力』ではなく、音楽などの芸術で復興を謳おう」というロックンロール精神の演出だったのかもしれない。

しかし、それはどちらも、過去と現在で辛く苦しい思いをしている人にとっての助けにはならない。ベトナム戦争に向かう米兵が、コザの街でロックンロールを浴びて熱狂するとき、ギターのリフの美しさは彼らの心を確かに救っただろうが、命は救わなかった。ビリーは生き残ったが、インパクトのライブで熱狂していた他の兵士たちは、果たして生還しただろうか。もしくは、誰かを殺したりもしただろうか。不動産屋がコザの再開発を提言したとき、コザの街の治安の悪さで誰かが傷つくのが見ていられなかったという気持ちは、少しもなかったのだろうか。この映画を褒めるその時、見えない暴力も肯定されていなかっただろうか。

映画はエンタメだ。映画ミラクルシティコザも、きっと誰かの心を救うだろう。しかし、命は救わない。命を救うのは、エンタメを摂取して元気になれた人間の仕事だ。
復帰50年を迎えた沖縄に生きる人間がするべきことは、過去の礼賛だろうか?この映画が最後に映したのは、現代、つまり、かつて若者だった人"だけ"にとっての未来だ。この映画で1番幸せになったのは、主人公のショウタではなく、ハルだ。ハルは、マーミーと天国に行った。では残されたショウタは、治安が悪くて大型施設のない2022年のコザの街で、ロックンローラーに憧れたまま、どう生きていくのか。この映画は描いていない。続きを考えるのは、私たちだ。

ミラクルシティだったコザはもうない。しかし、貧困と暴力の連鎖はまだ残っている。その連鎖を止めるには、自分の立っている足元だけでなく、新しいものや価値観を見据えて、貪欲に取り入れていく必要があるのではないだろうか。

沖縄県の「戦後」は、いつまで続くのだろう。もちろん、ここが地上戦で亡くなった人たちの遺骨や不発弾の眠る土地であることはいつまでも忘れてはいけないけれど、これからの沖縄県民は、誰かの好きなロックンロールだけではなく、自分の好きな新しい歌も奏でていければいいと思う。

実際の"コザ"は今、地域活性化に力を入れていると聞く。沖縄アリーナもできたし、沖縄市内にはイオンモールライカムがある。新しい文化の潮流だってある。復帰50年以降の沖縄が、もっと盛り上がっていくことを願う。

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