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物語と作業療法 part3
では、その物語というのをどう生かしていくのか?
私と師匠OTの差はなんなのかということについて、考察をしていこう。
この本の中に、物語の作用がある。
それは「物語は現実に一つのまとまりを与え、了解可能なものにしてくれる」
ということである。
作業療法の要素として、よく言われるのは
サイエンス&アート
量的研究と質的研究の融合である。
物語的説明・解釈の対極として
科学的説明・解釈がある。
科学的説明・解釈とは
「こういう条件のもとでは、こういう結果が生じる」
という一般性・普遍性を伝えるものである。
イメージしやすいものであれば、
「この子はASDである」
「この子はADHDである」
という説明である。
(話がややこしくなるので、ADHDやASDという診断名が科学的に正しいのか?という議論はいったん脇に置いておく)
さて、このラベルというのはわかりやすい
「〇〇くん」から「ASDくん」に早変わりである。
そうすると世界は〇〇くんの世界は一変する
あらゆることの言語化や視覚化がなされ、生活や環境は変わっていく。
何かトラブルが起こっても、もしかしたらものすごくドラマチックな背景があったのかもしれないのに「ASDだから・・・」とまるで免罪符のように、受容と諦めにも似た思いを向けられる。
一般性・普遍性というのは「わかりやすさ」と引き換えに「個性」を消してしまう。
救われることもあるし、取り戻せなくなることもある。
その子はその日から「〇〇くん」ではなく「ASD」としての世界が開かれていくのである。
対して、物語的説明・解釈はというと
偶然の要素をふんだんに取り入れることができる。
この場合の偶然性とは個別性であり、例えば「〇〇くんと□□ちゃんが喧嘩した」というような出来事である。
いくつかの出来事に対し、一貫性が見出され、物語として繋がった時
私たちは理解したと感じることができる。
物語は偶然を含み、偶然は個々の体験の中で生じる、言語化できるが一般化・普遍化できないものである。
それが物語としてひとまとまりとなった瞬間に私たちは深い納得感・共感を得ることができる。
科学的説明も物語的説明も
それぞれが説明された途端、理解を一定の方向へ導く作用がある。
「現実制約作用」と言われるそれは、理解を導くと同時に理解を一方向に進めてしまうという諸刃の剣的な作用も持つ
言葉が世界を作るというならば、それはそうだと言えるだろう。