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【いそがしいとき日記】その28
この「いそがしいとき日記」という形式、なかなか気に入っています。
はじめた当初は、本当に日々が慌ただしくて余裕がないときに、それでも何か文章をアウトプットしたくて、徒然と思考の断片みたいなものを連ねていくこの形式を思いついたんだけど。
今日なんかは稽古がオフ日で、これまでできなかった家のこととか自分のこととかをじっくりやっていたので別段「忙しい」という感じではなかったのだけど、
けれど今日書きたいものはひとつどっしりと筋の通った文章ということではなさそうな気がして、そんなときでもこの「いそがしい日記」という形式だと文章を書きはじめられるので重宝します。
なんというか、ごくごく短編のエッセイの数珠つなぎみたいな感じですよね。
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いつのまにか梅がこぼれて、沈丁花が咲き、木蓮の蕾もひらきました。
春の花、というと桜のイメージが強い方が多いかもしれませんが、僕にとっては沈丁花、木蓮あるいは辛夷。象徴的な香りと、象徴的な姿です。
木蓮や辛夷の何がいいって、春の淡い空にすっきりと伸びた枝から「私は寒い冬を耐え忍びました」みたいな気品をもって花が咲くところですよね。
何故だかよくわからないけど僕は昔から、樹に咲く花っていうのに惹かれます。沈丁花も木蓮も辛夷も、樹に咲くでしょ。あとは桐の花も好きだし、サツキや椿も好き。桜だったら八重が好き。
もしも、もしも、自分の庭を持てるような身分になったら、ぜったいにそこには木蓮を植えたいのです。春の初めの木蓮の凛とした白さを見ると、胸がすっきりと晴れ渡るような気分になるのです。
あと、庭があったら花柚子の樹も植えたい。柚子を料理に入れるのが大好きだからです。
食べ物の話にたどり着いちゃった。笑
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リーダーシップについて、考えています。
日本の教育のなかでは、リーダーになることは(どちらかというと)面倒くさいことだという刷り込みがされがちです。
あと、グループの中には絶対的なリーダーがひとりいればよくて、あとの人はその人の言うことを聞きながら無難に物事を進めてけばいい、みたいな思考も身につきがちな気もします。
こういう事柄は一般化してしまうのはよくないから、あくまでも、僕の育ってきた環境では、ということだけかもしれません。
でも、それって本当は違いますよね。本当は、というか。うーん。
つまり、そういう認識の人が大多数を占める組織の運営は、あまり健全じゃないと思うのです、僕は。
ひとつの集団がなにか目的を持って運営されていくとき、そこにはリーダーが必要です。
そして同時に、そこに属す人のうち、リーダーシップの大切さを認識し自身でもリーダーシップを発揮できる人の割合が多ければ多いほど、その集団は強いエネルギーを持って前進していくことが可能です。
もちろん、そこに属する全員が「役職としてのリーダー」になる必要はないと思います。
けれど、肩書きが例えば平社員であっても、あるいはいちばん下っ端のアルバイトであっても、その人がそれぞれにリーダーシップを持って物事に取り組めば、その集団の生産性は格段に上がります。
で、別にこれは、全国のアルバイトに「今日からあなたもリーダーシップを持って働きなさい」と言いたくて書いているわけではありません。
リーダーシップとは何か、と考えます。
まず必要不可欠なのは、「自分の頭で考える力」でしょう。誰かの意見を鵜呑みにしてそれを自分の意見とすることは、リーダーシップからは程遠い状態です。フォロワーと呼ぶのがふさわしいでしょう。
そしてもう一つ大切なのは「行動する力」です。どれだけ素晴らしいことを考えていても、行動しなければ状況は何も変わりません。
そして、考え・行動した上で、成果を出していかねばなりません。課題を解決し、状況を改善し、ミッションを完遂せねばなりません。
組織において必要とされるリーダーシップは、このような力を「組織の利益のために」発揮できるという種類のものです。
組織の利益を優先しようとしたときには、リスクを取らなければいけないこともあります。というか、何かを選択するということは常に、リスクを引き受けるということの裏返しでもあります。
組織に属する者たちが発揮したリーダーシップによって見えてきた施策の選択肢から、どれを選ぶのかを決めるのが「役職としてのリーダー」です。小学校の班なら班長、部活なら部長、会社なら社長、そういった人々です。
リーダーとは、組織の利益のために、最終的にどんな施策を選ぶのかを決める権限を持つ人です。リスクを引き受け、その判断に責任を持つ人です。
このリーダーが、自分の判断に責任を持たなかったとしたら、どうなるでしょう。
あるいは、リーダーが自分の選択によって利益を最大化しようとする組織が、他の人たちの思う範囲とは違ったらどうなるでしょう。あるいは、多くの人が望む利益と、リーダーの望む利益に、齟齬があったとしたら。
たとえば、サッカー部の部長が望む利益が、チームの勝利ではなく、「自分が試合に出ていいカッコをすること」だったとしたら。
たとえば、ある会社の社長が大切にする「組織」が、社員全員を指すのではなく、自分の意のままになる近しい幹部2〜3人のことだとしたら。
僕は健やかで誠実で、そしてしなやかで力強いリーダーシップを身につけた大人になりたいなと思ってきました。今でもそう思っています。僕なりに試行錯誤をしています。うまくいっているかどうかはわからないけれど、
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「意見は、人ではなく立場が言わせる。」
僕が演劇をやったり、本を読んだりしてきたなかで学んだ、とても重要な考え方です。意見は、人ではなく立場が言わせる。
人はその人自身がどこに立っているかによって、いとも簡単にその意見を変えることができます。
もし、ある人が主張する意見が自分にとって違和感のあるものだったとしたら、その人がどんな場所に立っているのかをよくよく観察してみることです。
けれど多くの場合、僕らは、自分の立ち位置からの景色しか見ることができません。自分のいる場所以外のところからの眺めを想像しようともしないし、たとえ想像しようとしたとしても、別の場所に立つ人の目に映る景色を完全に想像することは不可能に近いのです。
けれど、観察することと想像することをやめるべきではないと、僕は思います。
「わかろうとする努力」をやめてしまえば、いずれ誰とも交わり合えなくなってしまうからです。
そして、自分の意見もまた、自分自身だけでなく、自分自身の立場からの強い影響によって形作られているということを、できるかぎり忘れないようにしておくことです。
例えば僕自身の意見は、バブル崩壊直前の1989年に日本で生まれ、文化芸術を愛し、文化芸術を職業に選択し、個人事業主として、収入源の軸足を商業演劇の世界においている、シスジェンダーヘテロセクシャル男性、という立場から生まれてきています。
とても特殊な、ユニークな立場です。
けれどよくよく考えてみれば、この社会に生きるすべての人の立場は、こうして分解してみるとどれも相当にユニークなのです。
ここに、信仰や、信条や、さまざまな利害関係などが複雑に絡み合って、人々の意見は形成されていきます。
その複雑な代物を、どうにかこうにか理解しようと努めたいのです。
理解しようと努め、観察し、想像することをやめたくないのです。なぜならば、それをすることからしか、対話は生まれないからです。
対話が失われれば、そこに立ち現れるのは弱肉強食の世界です。
強いものが生き残り、弱いものが淘汰されていく、そんな殺伐とした世界です。
狩猟採集で暮らしていた時代までは「強さ」とは文字通り「筋力・体力がある」ということでした。けれど高度に複雑化した現代では主に「経済力があるか」「権力を持っているか」という意味に置き換わりました。
現代で弱肉強食が成立するということはすなわち、「経済力と権力のあるものは生き残り、そうでないものは死ぬ」ということになるのです。そんなのって嫌だ。
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今日の内容はあんまりうまくまとまらなかったけれど、それでもいいっていうことにしようと思います。
読んでくださってありがとうございました。
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