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【いそがしいとき日記】その26


「天保十二年のシェイクスピア」は無事に稽古場での稽古を終えました。

かなりの運動量、装置と連動したミザンス、ヴォリュームのある衣装と、ハードな要素が満載ながら、誰ひとりとして怪我もなく、また、この時期にも関わらず深刻な感染症の蔓延などもなくここまでくることができました。ほっとしています。

俳優部はしばし休息の時間をいただきまして、今日の僕はゆっくりと起き、昼前からうまい蕎麦を食べ(せり蕎麦。あと、岩のりあんかけ豆腐も食べた。)、お日様を浴びたくて散歩をし、甘いものを食べたりしました。幸せだったー。

そんな瞬間も劇場ではスタッフの皆さんたちが、休みなく建て込み作業をしてくださっていて。

この行程がないと、どれだけ稽古した芝居も幕を開けることができません。

演劇ファンの皆さんには、ぜひ一度体験をしてもらいたいなと思うことが前からあるんですよ。「まっさらな舞台で仕込みが進んでいく様子」と「千穐楽後の舞台がバラされて素舞台になっていく様子」を見る、っていうやつなんですが。

本当にすごいですから。

基本的に演劇を「観る」という立場だけだと、素のままの舞台を見ることってあんまりないと思うんです。「演劇を観る」というのは、完璧に準備された完成品を見る、ということですから。

でもその完成品ではない、仕込みの様子を見ていると、驚くべき瞬間がいくつもあります。「魔法のようだ」と思いつつも、「たくさんの人が汗を流し、危険と隣り合わせで”魔法”を現実にしてくれてるんだな」という気持ちになります。

プロフェッショナルな仕事の積み重ねが、安心で安全で、かつ美しくエキサイティングな舞台の空間を作ってくれているわけです。本当に、ありがたく思います。

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そんなこんなで日々演劇に関わる、とっても楽しい生活をしているのですが、その頭の片隅で「果たして僕が俳優をやる意味があるのか」みたいなことをこのところ考えています。

これは決して、悲観的なことじゃないのです。


先日、演出家の谷賢一さんがこんなことをツイートしていました。

ワークショップの応募書類を見てるとつくづく思うんだが、俳優(志望)ってマジで多すぎる。バランスが圧倒的に悪い。完全な過当競争。それは条件・待遇の悪さにも繋がっているだろう。もっと演出志望や劇作家志望が増えてくれれば、俳優の出演機会も作品の幅も増えて一石二鳥なのだがな。

そうなんですよね。今の日本、そして特に東京近辺には、「俳優(志望)」の数が多すぎると思うんですよね。

それに対して谷さんは、演出志望や劇作家志望が増えれば俳優の出演機会も増えて〜、と書いてらっしゃいますが、僕としては「俳優の多さ」と同様に「演劇作品の上演の多さ」にも、ちょっと感じるところがあります。


本当に毎日たくさんの演劇作品が上演されています。特に、東京の街でその傾向が顕著です。

大劇場の商業作品だけでもめちゃめちゃたくさんあるのに、小劇場でもわんさか、日本の伝統芸能も数多、小さなギャラリー公演やスタジオ公演も含めたら、本当に凄まじい数の作品が上演されています。


こんなにたくさんの作品があって、こんなにたくさん俳優もいるなかで、正直「供給過多」みたいになっている状況の中で「僕が俳優をやる」ということに、いったいどんな意味があるのでしょうか。

もちろん、僕個人としては、芝居をすることが大好きだし、もっともっと上手くなりたいという自分に対しての課題設定もある。それをクリアしていくことも楽しい。

自分の人生から「演じること/歌うこと」がなくなったら、とってもつまらないし悲しいだろうなとも思う。できることなら死ぬまで芝居や音楽に触れたまま生きていきたいなとも思う。

でもそれは「自分にとっての価値」という観点。

「他者にとっての価値」という観点で物事を考えると、大変にシビアな問いがいくつも立ち始めます。

自分は、演劇で、何ができるのか
どれだけの人を幸せにできているのか

みたいな問いもあれば

社会から要求されるようなパフォーマンスを返せているのか
(表現のクオリティのこと、集客・券売のこと、etc)

みたいな問いもあれば

たしかに誰かを幸せにできているかもしれないが
それは他の「何か」によって代替可能なのではないか

みたいな問いもあります。

もっと進むと

そもそも、演劇が(日本の)社会に対して提示できる価値があるのか

みたいなことも、非常に重要な問いだと思うし。


山野靖博が好きだ、といってくださるお客様がいることも事実です。

その事実に僕はいつも支えられているし、「山野が好きだ。応援している。」と言ってくださる方、思ってくださる方のそのお気持ちに対して、何か少しでも返せるものがあるようにと、日々お芝居や音楽に向き合っているというところもあります。

だから、頭にも書きましたけど、この「果たして僕が俳優をやる意味があるのか」という問いは、決して悲観的な思いから立ち上がってきたものではないのです。

むしろ、(舞台も映像も含めて)これだけ演劇作品が飽和したこの社会において、僕が演劇に携わることによって、何らかの足跡や爪痕を残せているのだろうか?という疑問があるからこその問いなんだと思います。

で、その疑問の裏には「これだけたくさんの演劇があるなかで、ここに山野靖博がいるぞ!という爪痕を残したい」という欲求があるんだと思います。

これだけ演劇作品が飽和したこの社会において、現状の「演劇界」が要求してくる「演劇界のルール」だけに則って、ただのひとつの歯車として消費されるのが嫌だからこそ、こういうことを考えるのだと思います。


がんばろーっと。


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このあいだTwitterで「#anoneで診断してみた」というハッシュタグを目にしました。

さいきんの僕は「社会の中での男性性」について考えることが多くて、男性学についての本を読んだりしています。

そんなタイミングで「2,000通りのセクシュアリティの組み合わせから、あなたに「もっとも近い」パターンを分析します。」と謳う「anone」というサービスがあると知り、自分でもやってみようと思ったのです。

その結果がこれ。

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診断してみた結果としては、自分の認識と一致していたなという感じです。

僕は自分をシスヘテロ(自分を男性だと認識し、身体も男性。そして異性に恋をする)だと認識していましたし、サピオセクシャルの傾向が強いのも認識していました。

興味深かったのは、表現したい性の部分が「Xジェンダー」だということ。

「なるほど」と思うのは、男性学の本を読んだりしているというのも、日本の社会が男性性に求める「男らしさ」に違和感や嫌悪感を感じることが多いからで(男は泣くもんじゃない、マッチョで肉体派が男らしい、女性を支配するのが男らしさ)、でもだからといって僕は女性としての振る舞いや服装をしたいわけではないということ。

性自認はシスヘテロでも、「表現したい性」がXジェンダーっていう捉え方があるんだなあと思って、ちょっとした衝撃を受けました。

世間ではおおむね「男性らしさ」の象徴とされるスーツやネクタイのスタイルは大好きだけど、それは「ファッション」として好きなのであって、「男らしい格好だから好き」なわけではないこと。

演劇の場で時に無批判的に要求される「ステレオタイプな男性像」に対していつも引っかかっちゃったりすること。

そういったことはつまり、僕自身の「表現したい性」が社会的な「男らしさ/女らしさ」という概念から切り離された、ニュートラルな「人間としての個人」だということを表しているようです。

それが、Xジェンダーというカテゴリーに着地した、ということですね。


この「anone」というサービス、公式なお願いとして

anone, は医学的・科学的に基づいた分析ではありません。また、セクシュアリティは変動的なものであるため、あくまで「まだ知らないあなたを探すきっかけ」としてご利用下さい。

という記述があります。あくまでも、設問への返答の傾向から予想されるセクシュアリティを分析している、というもののようです。

また、「セクシャリティは変動的なものであるため」という記述も、丁寧で好感が持てます。


僕自身、こういったセクシャリティを背負った視点から、社会の出来事をみたり、人の発言を理解したり、舞台作品や書物を解釈しているわけです。それはある種の「フィルター」的な役割を果たします。

自分の思考傾向に影響を与える「セクシャリティ」について、きちんと認識しながら物事を考えることって、僕自身としてはとっても大切なことだなぁと思いました。


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山野 靖博(ぷりっつさん)
読んでくださってありがとうございました!サポートいただいたお金は、表現者として僕がパワーアップするためのいろいろに使わせていただきます。パフォーマンスで恩返しができますように。