こぼれ落ちてしまうものたち
自分で言うのもなんですが、僕は、文章を書くことが得意です。
テーマが決まれば、あまり悩まずにまとまった文章を書けますし、たとえば与えられたテーマとかでも、自分なりの文章にしてアウトプットしていくことができます。
見たものや感じたことを、言葉に置き換えることも、だいたいにおいてはスムーズです。
でも、さいきん思うのです。
言葉にするということは、言葉にすることにより取捨選択をする、という行為なのだな、と。
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僕は大学の頃まで、言葉は全てを表現し得ると思っていました。
し、いまでも、頭の半分では、そう思っています。
けれど、なにかの現象や感情を言葉にするということは、「言葉にして表すことを選ぶ」ということでもあるし、「なにを言葉にしないかを選ぶ」ことでもあるのだなあと。
たとえば、青い空。
とても綺麗な青い空が頭の上に広がっていたとして。
それを、「とても綺麗な、澄んだ青い空」という言葉にしたとします。
でも、その空の青は、青一色じゃなくって、薄雲がかかった白っぽいところもあるだろうし、同じ白でも光の加減で青が薄くなっているグラデーションの白もあるかもしれない。
それに、空から少し目線をさげると、青々とした山がみえるかもしれない。
でも、「とても綺麗な、澄んだ青い空」という言葉を発することは、それらのいろいろな白や、山や、川や、町や、人や、そういったものを「表現しないという選択」をしたことと表裏一体なのだなと思います。
言葉を重ねて、それらの風景を描写していくことは可能です。J.R.R.トールキンのように。
けれど、トールキンが描いたのは、彼の頭の中にある風景。
でも、いま見上げている空は刻々と姿を変えていくし、その全てを描写しようとすれば、言葉が目の前の空の変化に追いつきません。
僕たちはそうやって、「なにを言葉にするか」「なにを言葉にしないか」を瞬時に選んで、話したり、書いたりしているんですよね。
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でも、人間の感情とか、欲望とか、そういうことを考えていくと、「言葉にしなかったもの」「言葉にされなかったもの」の存在の方が、おっきくて重要だったりします。
思っているけど言わなかったことや、自分では気づいてないけれど身体が反応していること、自分では見て見ぬ振りをしたいことなどは、言葉にされません。
僕が表現者として生きているなかで、この、「言葉にしなかったもの」「言葉にされなかったもの」を大切にしたいなと思うようになってきました。
人間の感情のなかには、言葉にできないものもある
ということとは、ちょっと違うのです。
僕は言葉の力をとても深く強く信じているので、言葉を尽くせば、言葉に表せないことはない、と思っています。
けれど同時に、言葉にしたことによってこぼれ落ちてしまうものたち、があることも知っています。
その、こぼれ落ちてしまうものたちの存在を見逃さず、見落とさず、肌でしっかりと感じながら、今日もお芝居の世界にどっぷり浸ってきたいと思います。
読んでくださってありがとうございました!サポートいただいたお金は、表現者として僕がパワーアップするためのいろいろに使わせていただきます。パフォーマンスで恩返しができますように。