「決める」ことの重要性について
あらゆる仕事の種別の中で、「決める」という仕事がいちばん難しく、価値があり、かつ軽視されがちなのではないか、と思う。
演劇や音楽の現場でも「決める」ことの重要性は高い。
戯曲にしろ、楽曲にしろ、それらを「どう表現するか」の選択肢は無数にある。その選択肢の中で「着地点をどこにするか」を決断する瞬間っていうのは必ずやってくる。
このときに、「Aがいいんですけど、Bもありえますよね」とかいうフワッとしたチョイスをしてしまうと、大抵最終的なアウトプットも良くならない。
僕としては、ひとりで歌っているときにもそれは感じるが、特に、複数人が関わるカンパニーにおいては「決める」ことの重要さは顕著だ。
そこに集まっている人々は大体において、全く違うバックボーンを持っている。音楽の解釈にしろ、慣れ親しんでいる芝居の方法論にしろ。発声法とか、踊り方とか、グルーヴ感、言葉に対する感覚、見え方に対する感覚。
それぞれがそれぞれに自分なりの思いをもって集まる。
けれど、そのまんまにそれぞれが自分の信念のみを重要視していたら、カンパニーとしての表現は作品としてまとまらなくなってしまう。仮にまとまったとしても、輪郭がぼやけるとか、情報量が多すぎるとか、なんかヌルいとか
そういう事態に陥る。
そこで大事なのは、「決める」という仕事。
演劇の場合は演出家やプロデューサー。音楽の場合は指揮者や音楽監督が、「決める」という仕事を担う。
あるいは、歌唱指導や振付家、舞台監督みたいな役割も、表現の着地点を大きく左右する「決断」を下しつづけることが仕事だったりする。
歌い手や俳優といったイタの上に立つ存在も、「決める」仕事からは逃れられない。
自分の解釈、自分の技術、自分の思いなどなどと、演出家や指揮者などによって「決められた着地点」をキチンとすり合わせ、その場合にはどんなアウトプットがふさわしいのかを考え、見つけ出し、選択しなければいけない。
「これこそ、現時点での正解だ」という確信のもと、自分のアウトプットを「決め」なければならない。ここで日和ると、現場における表現者同士の有機的な反応がいっさい起きなくなってしまう。
「決めることができる」という能力は、とても価値が高いものだと僕は思う。
やぶれかぶれでなく、確信を持って何かを「決める」という行為の裏側には、その人自身の頭で考えたという工程が存在するからだ。
なにかを「決める」っていうのは、普通の人からすると怖いことなのだ。
「今夜なに食べたい?」「なんでもいい」
「どこ飲みに行く?」「おいしいところー」
それぐらいのことでさえ、僕らは自分の意思を持って決めることができなかったりする。
「決める」という行為を伴った仕事を、僕は本当に尊敬する。
し、僕も自分で物事を「決められる」表現者になっていきたいと思う。
読んでくださってありがとうございました!サポートいただいたお金は、表現者として僕がパワーアップするためのいろいろに使わせていただきます。パフォーマンスで恩返しができますように。