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日常に劇的瞬間を取り戻す。
ぽつぽつと、あいだを開けながら「いま、演劇について考える」ということをやってきました。
この3つの記事は僕のなかでは続き物で、今日これから書こうと思っているのは、この3つの記事たちを通して考えてきたことへの僕なりの答えだったりします。
で、これ以外にもこんな記事や
こんな記事を書いてきました。
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いろいろ書きましたけど、世間の状況は刻一刻と変わっていくもので。
先月までは劇場の再会は先行きが見えなくって、夏以降の公演の中止も続々と決まるという、演劇人や演劇ファンからしたらかなり悲惨な精神状態が続く日々だったわけですが
緊急事態宣言が一旦解除になり、東京も劇場や映画館などは再開してもいいよ、という警戒水準になったため、6月後半や7月に開幕する舞台の告知がされはじめたり、劇場からの配信作品がいくつも出てきたりと、まあ、そんなかんじのこの頃です。
これ自体はとっても嬉しいことだし、いいことだと思ってます。
じっさいに喜んでいるお客様もたくさんいるでしょうし、僕も僕とてダルカラの谷賢一さんが7月に作・演出・出演で一人芝居をやるという情報解禁があって、こりゃぜったいチケット取って観にいかないとなと思っているところです。
でも、今日は、こういう「劇場で何かがやられて、それを観にいく」とか「劇場で何かがやられて、その映像を劇場外のどこかで観る」とかじゃないことについて考えてみたいと思います。
シンプルに、「僕らの日常に、劇的瞬間を取り戻せないだろうか」ということです。
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前回書いた「いま「配信されている演劇」の種類はとても偏っていると思う、という話。」という記事の中では、演劇を観る姿勢について4象限マトリクスを用いて種類分けをしてみました。
その上で、いま配信されている演劇では「存在指向型/能動的受容」みたいな楽しみ方をしている人のウォンツを満たせないのではないかと書きました。これについてはいまでも考えは変わっていません。
では、どうやれば「存在指向型/能動的受容」のウォンツを満たせるのか、ということです。
で、こうやって書いてて申し訳ないんですが、正直、「映像配信」を用いることで「存在指向型/能動的受容」的な観劇体験をしたい、というウォンツを満たす方法は思いつけてません。いまのところ。
ただ、少しだけ違う角度から、このウォンツの根元にあるニーズにアプローチする方法を考えました。
こんなことを数ヶ月かけて考えているのもぶっちゃけ、僕自身が「存在指向型/能動的受容」の観劇体験を強く求めているからにほかなりません。で、このウォンツは、このまま劇場空間が再稼働していけば自ずと満たされていくものであります。
でもそこで、「あーよかった元どおり」みたいになっちゃうのはなんか違う気がしていて。ここ数ヶ月で僕らが体験した大きな出来事を通して感じたことをそのまますっぽり過去に置き去りにして、「以前のとおり」に戻ることは、僕には違和感があります。
今回の出来事で得た大きな気づきとして、演劇を劇場の中に閉じ込めすぎてやしなかったか?という疑問があります。
演劇はいつのまにか、舞台とプロセニアムを必要とし、照明と音響とコスチュームありきになり、それを演じるのは俳優を自認する者たち、というような存在になっています。
そういった様々な「非日常」の効果によって、観客の目の前にはさまざまな種類のドラマが展開されていきます。それは突拍子もないスペクタクルから、「あるある」と違和感なく共感できるような我々の日常に起きそうな出来事まで、多岐に渡ります。
そのドラマが紡ぎ出す出来事や、そのドラマを紡ぎ出そうとする人々の佇まいや、はたまたそのドラマが立ち上がっているその空間のゆらぎのようなものを、観客席から僕たちが観て、心を動かされたり動かされなかったりするわけです。
観客の目の前には、劇的な瞬間が提示されます。それは派手なアクションや特殊効果を伴うこともありますし、印象的なセリフによって導き出されることもありますし、あるいはなにもない空間から浮かび上がってくることもあります。
いずれにせよそこには劇的な瞬間があって、それを、演出家や劇作家や、俳優や衣装家や照明家や音響家や美術家や、その他ありとあらゆる専門的技術を持った演劇人が知恵と肉体と情熱を突き合わせて、なんとか生み出そうとしているのです。
そして、それが表出する場所は劇場のなかと相場が決まっているのです。
となると、いろいろな事情で劇場自体が機能しなくなった場合、僕らの生活の中からは劇場演劇的なものが失われてしまう。このことについては嫌というほどここ数ヶ月で実感しましたよね、僕ら。
だからこそ、どうにかして劇場空間を再開できないかということに頭を悩ませて、いろんな演劇人がそれぞれの場所でリスクをとりながら行動をはじめたわけです。
でも、ちょっと立ち止まって考えてみたいのです。
演劇的手法を用いて劇的瞬間が生み出される場所は、べつに、劇場に限定されなくてもいいのではないでしょうか。
こういうと勘のいい人は「ははん、テント劇や野外劇ってことだな」と思い当たるのかもしれませんが、僕がこれから言いたいのはそうじゃありません。もちろん、テント劇や野外劇の価値を再評価していくのはいい試みだと思いますが。
劇場は基本的には非日常の場です。
この、非日常の場に依存している演劇表現を、日常に取り戻したっていいじゃないか、ってことです。
もうひとつ、あらためて考えたいことがあります。
演劇的手法を用いて劇的瞬間を生み出すのは、職業演劇人や演劇人を自認するセミプロやアマチュアの特権のように思われています。ここも見直せるんじゃないでしょうか。
つまり、非常にライトな方法で、俳優になりたいわけでも、演劇のスタッフになりたいわけでもない人が、演劇的な営みを実行してみてもいいじゃないか、ってことです。それも、日常の中で。
同じようなことを考えている人はきっといくらかいて、たとえば「独白」を書き下ろしてそれを自由に読めるように発信する、という手法をとっている劇作家さんもいました。
でも僕は「セリフを喋る」ってのは、ちょっと、ふだん俳優的訓練を受けてない人からしたら、ハードルが高いんじゃないかなって思います。いや、いいんですよ、独白を日常に取り入れるというかたちでも。それがしっくりくる人はどんどん取り入れてほしいです。
僕は、行動に注目する方がチャレンジしやすいのかなと思っています。
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行動。
僕らの日常は数多の行動によって成立しています。
目が覚める。布団から出る。顔を洗う。水を飲む。カーテンを開ける。朝食を作って食べる。服を着替える。化粧をする。荷物を持つ。靴を履く。部屋の電気を消す。ドアを開ける。一歩踏み出す。
日常の行動をすべて書き留めようとすると膨大な量の言葉が必要になります。
でも僕らは、そうやって書き留めようとするとものすごいことになっちゃう行動の量のほとんどを、無意識的にやっています。
この、無意識的な行動の連なりで出来上がっている日常のなかに、意識的な行動の時間を織り込むことで、そこに劇的瞬間を体験することができるのではないか。僕はそう考えています。
もちろん、日常の中に意識的な行動の時間を組み込んでらっしゃる人はたくさんいると思うのです。たとえばジムやヨガに通う習慣のある方、とか。ゴルフが趣味だとか。プラモデルを作るのが趣味だとか、そういうこと。
こういった出来事に関連する行動は、最寄駅から自分の家に帰る道すがらの自分の行動よりも、格段に意識的だと思うのです。
でも、僕は演劇が好きだから、演劇的手法を用いて、意識的に行動をする時間をデザインしてみたいのです。
それになんの意味があるんだと聞かれたら、「正直よくわかりません」としか答えようがありません。僕としては確実に、そこに意味と意義があると思っていますが、それを試みてくださったすべての人が意味を感じ取れるかどうかはわかりません。
何かの意味を感じ取ったとしても、それが僕とおんなじとも限りませんし。
あるいは、この試みは、どこまでいっても意味のないことなのかもしれません。
でも、意味のないことをすることの意味がないわけではないですよね、人生。意味があるとかないとかは、ある地点での限定的な価値判断としてしか機能しません。
問題はです。
どうやって、演劇的訓練を受けてない人が、その人の日常の中に、演劇的手法を用いた意識的な行動を織り込みながら、そこで劇的瞬間を体験するか、です。
そのために僕は、戯曲を書こうと思いました。
しかしこの戯曲には、ほとんどの場合セリフはありません。行動のみが記されています。
演技者(あなたのことです)は、戯曲に書いてあるとおりに行動をします。
ここでひとつだけポイントがあります。とっても大事なポイントです。
その行動を真剣にやることです。真剣にやることが、なによりも大事です。
どんな真剣さでも構いません。あなたにとっての真剣であれば、問題ないと思います。自分にできうる限りの真剣さを動員して、その行動をやってみることです。
その際に、その行動に完全に集中する必要はありません。その行動をやりながら、もしかしたら他のことを考えてしまうことがあるかもしれません。それはなんら問題のないことです。
むしろ、行動を真剣にやってみたからこそ、ふだんだったら思いがけもしない事柄が頭に浮かぶなんてこともあるかもしれません。それでいいと思います。それこそひとつの劇的瞬間です。
戯曲は、こんな感じです。
行動戯曲1 「空」
登場人物 じぶん
① 窓を開ける。
② 空を見上げる。そして空をじっくりと見る。
③ 空の色を掴もうとする。
④ゆっくりと、にっこり笑う
これを、できるだけ真剣にやってみる。真剣に、というのがポイントです。
うまくやる必要は一切ありません。そもそもこの行動たちの「うまい」が何か、僕にはよくわかりません。
やってみて「なんもないわ。こんなもんか」っていう感想になる可能性も大いにあります。それはそれとして、ひとつの劇的な瞬間です。詭弁めいてるけど。笑
とはいいつつも、もしもチャレンジするときになんかしらの指針がほしいなというお気持ちがあるのなら、それぞれの行動をじんわりと、ゆっくりやってみるといいと思います。
窓なんて何も考えずに、素早く開けることは可能です。でもそれを、じんわり、じっくり開けてみるのです。窓を開けることを、意識的に行動してみるのです。
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この note は僕にとっての、一種の犯行声明のようなものです。
これからポツリポツリと、上のような形式の戯曲を書いて、発信していきたいと思います。たぶんメインはTwitterで、になると思います。
どうってことない戯曲です。戯曲だけではそれこそ、なんの価値もありません。
でももしも、それを読んでくれた誰かが、その人の日常のなかで、その行動を実行してくれたなら。そこに何かが生まれます。
劇的瞬間は何も、劇場の中だけにあるものではありません。
演劇的手法は何も、演劇人だけが使えるものでもありません。
もっとフランクに、もっとライトに、僕らの日常生活の中に存在しててもなんらおかしくないもののはずなのです。
だって多くの人間は小さい頃に、おままごとをやったじゃないですか。あれは非常に高度な演劇的手法を用いた劇的瞬間です。
劇的瞬間を、日常に取り戻そう。
劇的瞬間を、わたしの手に取り戻そう。
そうした上で体験する「非日常」は、また新しい景色を私たちに見せてくれるはずです。
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![山野 靖博(ぷりっつさん)](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/94593603/profile_ad8529a32a639529dc098f068eb83154.jpeg?width=600&crop=1:1,smart)