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演劇が立ち上がる瞬間を目撃してもらう。
昨日、ふと思いついてこんなツイートをしました。
ひとりの演出家と数人の俳優で
— 山野靖博◇7/12「バースデーコンサート」@blackA (@YasuhiroYamano) June 3, 2019
短編の演劇作品をつくる。稽古は1週間。
その稽古をお客様にみてもらう。
演劇が立ち上がり変容する瞬間を
1週間みっちりみてもらう。
そんなことがやってみたいなぁという
ふとした思いつき。
完成地点ではなく
作品ができあがっていく変遷を観劇するタイプの劇体験。
我ながら面白い思いつきだなと思ったので、「なぜそんなことを思ったのか」を含めて、ちょっと書いてみます。
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・最大の観客は、演奏者である
少しだけ、クラシック音楽の話をします。
ぼく、大学でクラシックの勉強してたからよくわかるのです。クラシック音楽の市場はとっても小さいってこと。
と同時に、こんなことも理解しているのです。クラシック音楽の演奏会にいらっしゃるお客様は高確率で、ご自身も楽器なり歌なりを嗜まれた経験がある、ってこと。
アマチュアオーケストラでヴィオラを弾いてます、とか、子どもの頃にピアノを習っていました、とか、毎年年末は第九を歌います、とか。
そういう風に、「自分も演奏したことがある」という人がクラシック音楽の聴衆であるというパターンは非常に多いです。
また、自身もプロのクラシック音楽家として活動している人が観客となるというパターンもかなり多いです。
・「観客=演奏者」であることの利点
観客に演奏の経験があると「楽曲の難易度や演奏の難しさを理解できる」という利点があります。
もちろん音楽鑑賞は「演奏の技術的難しさをどうやってクリアするか」を見守ることが主眼ではないため、これができるからすなわちよりよく鑑賞ができるということではありません。
ただ、奏法を理解していることで、演奏者から紡ぎ出される音の美しさや演奏の優美さ、迫力に、「より主観的な喜び」を以って共感できるというチャネルが生まれます。
演奏者が何に注意深く心を傾けているのか。そのときに生まれる身体の動きの繊細さや大胆さとはどんなものなのか。
そういったことにも共感できるチャネルを持っていることで、鑑賞という行為は「与えられる演奏を聴く」という受容のスタンスだけではなく、「演奏が生まれるその瞬間に自分の身体的記憶も以って参加する」という、より行動的な営みに生まれ変わります。
このことは、音楽鑑賞に対して、ひとつの魅力的な楽しみ方への道しるべとなります。
ロックバンドに憧れてギターを練習したら、プロのミュージシャンたちの演奏をより楽しめるようになった。
Youtuberに憧れて自分でも動画を撮り始めたら、トッププレイヤーの撮影や編集の技術の高さにあらためて気づいた。
そんなことも、同じ現象だと言えると思います。
・「観客=演奏者」であることの欠点
観る人聞く人、が、自身も演奏者であることには利点ばかりではありません。もちろん欠点もあるでしょう。
鑑賞者が演奏者側の都合を理解できてしまうことによって、「聴体験」以外のことに気が散って、鑑賞という行為自体にノイズが入る可能性があるデメリットはあります。
「自分のイメージするモーツァルト像とは違う」
「あー、声の調子悪そうだな。風邪気味なのかな。」
「最後の高音外してたよね」
「楽譜上にはあそこに休符があるはずなのに、なんで無視したんだろう」
などなど。
自身が演奏経験があるゆえにレシピの裏側を知っているからこそ、目の前の演奏から受け取れる情報は格段に増えます。
その情報たちが、目の前に提示されている音楽そのものの存在に、濁りを与える可能性は確かにあります。
けれど僕としては、このデメリットは些細なものでしかないと判断しています。
なぜならこの「ノイズ」は、鑑賞者の心持ち次第で無視することもできるし、あるいはこのノイズこそが単なる聴体験に奥行きや複雑な風味を与え、鑑賞行為により人間的で有機的な感動を呼び起こす可能性があるからです。
つまり、レシピの裏側がわかることで、「その人はなぜそれを選択したのか」に思いを馳せることができるようになった、ということでもあるから。
「なぜこの人はこのようにモーツァルトを演奏することにしたのだろう」
「コンディションの悪いなかでこのクオリティの演奏をする技術はすごい」
「最高音は外したが、全体の音楽の作りは美しかった」
「休符よりも優先したい流れがあったのだろう、確かにそれは成功していた」
少し美化して書いていますが、上では批判的に捉えていた要素も、鑑賞者の心持ち次第では、このような「美点」として評価することも可能なのです。
もちろん、専門的な知識を以って、どこまでも批判的に鑑賞することも可能です。そして、その行為自体は鑑賞姿勢としてなんら間違ったものでもありません。
・演劇の観客は演奏者になれるか
ここで演劇の話に戻るんだけど。
小劇場の観客はぶっちゃけ、ほぼイコール演劇関係者ということも少なくないです。売れない役者が芝居をして、それを売れない役者友達が観にくる、みたいな。業界内でお金がぐるぐる回りつづける。
けれど、大きな劇場での商業演劇となるとその図式はガラッと変わる。
もちろん、俳優が観にいったり、高校演劇の経験者が演劇ファンになるってことはあるけれど、お客様のなかでの「演劇経験者比率」はそれほど高くない、と僕は考えています。ちゃんとした観測をしたことがないから推測になっちゃうけど。
僕は心のどこかで、そういったお客様たちにも人生のどこかで「演劇」を体験していてほしいなと思うのです。
例えばそれが、「小学校のクラス演劇」とかでもいいのです。「高校の文化祭での出し物」とかでもいい。
でも理想をいえばその場に、演劇の専門教育を受けた指導者がいるのが望ましい。演劇とは何かを、論理的に理解していて、適切な技術を教えながら、心や言葉を交流させる体験を提供することのできる専門的指導者がいるのが。
けれど現状きっと、日本の教育の現場ではそれはかなり難しいことなので、
なにか別の方法がないかなー、と思って僕は日々を過ごしていました。
演劇未経験者に向けたミュージカルのワークショップを時おり企画するのも、こういった思いがあってのことです。
「演劇に出ることを体験した人がひとりでも増えていけば、日本の演劇鑑賞の空気感も変化していくはず」
という確信があるのです。
でも、じっさいに「出る側になる」っていうチャレンジをするのってかなり勇気がいることですよね。楽器ならひとりで練習できるけれど、演劇はひとりではなかなか練習できない。人前に立つことが前提だから、その前提を乗り越えられないと参加は難しい。
僕なんかは、ミュージカルファンの方がどんどんと、僕が関わっているミュージカルワークショップに参加してくれたりしたら面白いなと思っているけれど、
「わたしはひっそり客席で観ていたいだけで、出るだなんて滅相もない」
っていう人は、かなーり多いんじゃないかなーって思うのです。
そこでハタと気づきました。
僕が求めているのは「みんなに演劇をつくる体験をしてもらうこと」であって、「みんなに演劇に出てもらうこと」ではないということに。
べつに、「出演者」として演劇に関わらなくても、「出演者たちによって演劇がつくりあげられていくその瞬間」を目撃することによっても、より深く演劇を理解するきっかけを生じさせることは、ぜったいに可能なのだ。
そこでたどり着いたのが記事冒頭に掲載したあのツイート。
ひとりの演出家と数人の俳優で
— 山野靖博◇7/12「バースデーコンサート」@blackA (@YasuhiroYamano) June 3, 2019
短編の演劇作品をつくる。稽古は1週間。
その稽古をお客様にみてもらう。
演劇が立ち上がり変容する瞬間を
1週間みっちりみてもらう。
そんなことがやってみたいなぁという
ふとした思いつき。
完成地点ではなく
作品ができあがっていく変遷を観劇するタイプの劇体験。
なのであります。
・稽古を見ることで何を目撃するのか
観劇という鑑賞行為は、演出家や俳優といった「カンパニー」が1ヶ月やそれ以上をかけて稽古をした演劇作品の、その瞬間の完成形を、客席から観測することです。
けれどじつは、「演劇をつくりあげる」という作業を考えてみると、観客の前で提示される「本番」という状態は、その全体の数パーセントでしかありません。
もちろん「芸術作品としての演劇」や「商業作品としての演劇」を考えると、「本番」こそがその価値・その存在の100%であります。稽古のことはそれこそレシピの内側。レシピがどれだけ素晴らしかろうが、出来上がった料理がマズければ意味がない。
お客様が求めているのは、満足できる料理、だけです。
しかしやはり「完成形を鑑賞する演劇」というある種の限定された演劇への関わり方から視点をずらし、「演劇を作り上げる過程」という別の魅力にフォーカスを当ててみると、ここにも「完成品」とはまた違った演劇の魅力が詰まっているのです。
稽古の場にいる、ということは、完成品ができあがっていくまでのプロセスを、ドキュメントとして目撃する、ということです。
俳優や演出家が戯曲と向き合い、そのどこでつまずき、どのように悩み、どのように課題をクリアし、「ただひとつの正解」のない問いにどのようにして答えていくのか、を目撃するということ。
そのなかでは、戯曲と上演者という関係性だけじゃなく、俳優自身の人生の悩みや、演劇を中心に集まった人々が向き合い支え合う姿にも遭遇するかもしれません。
「演劇が、いったい、どのように立ち上がってくるのか」
そこにはじつは、人生のさまざまな苦難と喜びが、凝縮して存在しているのです。少なくとも僕は、そう思っています。
まぎれもない「人間」たちが、演劇をつくっていく。その行為を中心に交流していくその姿。その交流を可能にする「演劇」という空間の色彩や匂いを、ひとりでも多くの「鑑賞オンリーの演劇ファン」のみなさんにも、体験してもらいたいなあと、思ったのです。
・実現するとしたら
この企画を実現するとしたら、こんな感じになるだろうなというのもぼんやり考えてみました。
・参加するのは演出家1名、俳優2〜4名、稽古観覧者、スタッフ他。
・開催期間は7日間。稽古観覧者は全日程に参加が原則(応相談)。
・1〜5日目は稽古。稽古は10〜21時。
・6日目に仕込みとゲネプロ、夜本番。7日目に昼本番、バラし、交流会。
・稽古観覧者は15〜20名の募集。(一般15名、大学生以下5名、とか?)
・稽古観覧者の料金。一般は2〜8万円、大学生以下は5000円。
・本番は公開。100席ぐらいのキャパ。上演するのは短編作品。
・本番のみの観覧料1000〜1500円。稽古観覧者は稽古観覧料金に含まれている。
・音響と簡易的な照明、衣装などは入るが、基本的にシンプルな上演。
みたいな感じでしょうかー。
ぜひ、有給休暇とかをガツンと使って、7日間フルコミットしてみてもらいたいものです。ぜったい人生変わるから。
一般の料金と大学生以下の料金にかなりの差があるのは、「未来を育てる」っていう意味も込めています。
稽古中は稽古場のどこで見学してもらっても構わないというスタイル。前から見てもいいし、後ろから見てもいい。音響卓の横でもいいし、演出家のすぐそばでダメ出しのメモを覗き見しながらとかでもいいです。
稽古観覧者全員に台本を配ります。
あと、いきなり稽古スタートすると緊張しちゃうと思うので、稽古1日目の午前中とかは、簡単なアイスブレイクとかを俳優も交えて参加者全員でやるかんじかなーとも思ってます。拒否権あり。
冷静に考えて、こんな企画、すぐに実現するはずはないので。笑
基本的に僕の中では、100席2公演、計200枚のチケットが即完するような俳優に僕がなれたとしたら、それぐらいのタイミングでは実現できるかなーと思っています。がんばろっと。
おそらく、「こんな企画、演劇界にとってむしろマイナスだ!」と思われる方もいらっしゃると思いますが、僕はワクワクするなー。
みなさん、どう思われます・・・?
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