「家で演劇を観る」という心許なさについて。
文筆家の岡田育さんがこんなことをツイートしてらっしゃいました。
「まさしく…!」ってかんじ。
これについては僕もずっと考えていて、そろそろ note に書こうと思っていたところだったので、書いてみます。
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外出自粛が世界中のあちこちで続く中、大小さまざまな劇場・カンパニーが、インターネットを通して自分たちの持っている舞台作品の映像アーカイブを配信しています。
ホントに、ありとあらゆる有名な劇場が「無料で」配信をしていて、この流れが生まれてきたときに僕は
「ラッキー。これで在宅期間中、いろんな映像で勉強し放題だ。」
と内心思ったわけです。
けど、蓋を開けてみれば、じっさいに「観よう」と思って動画を再生したのは3〜4個でした。もっとたくさんの種類の素晴らしい舞台映像が配信されているのにもかかわらず。
で、その動画のうち、最後まで観ることができたのは、0個でした。ゼロ。
正直なところ、どの動画もはじめの10分間を見終えることもできなかった。
クリャービンの「三人姉妹」も、ピーター・ブルックのベケットも、ナショナルシアターアットホームの「ジェーン・エア」も。あ、ロイド・ウェッバーのあれこれも。
きっと、たくさんの演劇関係者やたくさんの演劇ファンが観たんでしょう。で、その映像に元気をもらったり、刺激をもらったりしたんだろうと思います。いいな、羨ましいな。
僕は、一個も集中できなかったよ。もう、完敗。全敗。
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でもこれが、Amazonプライムの映画だと観れるのです。
iPhoneやパソコンの画面で映画を観るという習慣は、今回の外出自粛よりも前から僕の生活の中にありました。で、いまも観れます。かなり楽しんで観ることができています。
この、映画なら家でも観れるのに、演劇の映像配信には家だとぜんぜん集中できないのは、なんでなんだろう、ってことですよ。
その結果、
家は、周りの情報量が多すぎる。
という結論に至りました。
画面を観ていても、周辺視野にはいろんなものが映り込みます。机の上のティッシュの箱。マグカップ。カーテンのレールに吊り下げてある洗濯物のかかったハンガー。電子ピアノとその上に積み上げてある楽譜。てか、そもそも机。
これらの状態は、画面の内側に繰り広げられている演劇的空間とは、似ても似つかない態度と空気感でそこにいます。どどーんと。「我関せず」みたいな顔をして。
この情報をシャットアウトしようと思っても、無理なのだ。だって、見えてしまうから。どう頑張っても、見えてしまうから。
それに椅子。椅子だって、いつも座っている椅子だ。そこでご飯を食べたり、note を書いたり、テレビを観たりする、いつもの椅子だ。その椅子にはどうも、日常が染み込みすぎているのです。お尻から伝わってくる「日常」の感覚。
あと、音。隣の部屋から聞こえてくる赤ちゃんの笑い声。上の部屋の住人の足音。窓の外からはバックで駐車しようとしている車の「ピーピー」。風で木々の枝が擦れる音。
たとえば、劇場であっても外の音が聞こえてくるところもある。八幡山のワーサルシアターとか。でも、僕はワーサルシアターに住んでいるわけじゃない。ワーサルシアターの座席に座っていて時たま聞こえる外からの音は、僕にとっての「非日常」の音だ。
けれど、僕の部屋の僕の椅子の上に座っていて聞こえてくる、隣の部屋の赤ちゃんの声は、どこまでいっても僕の「日常」から聞こえてくる音だ。
(ところで、この赤ちゃんがなかなか盛大な夜泣きをするんだけど、この外出自粛で日中もずっと部屋の中で過ごし続けている親御さんのメンタルがそれによって追い詰められてないといいなって毎晩思ってる。少なくとも僕は、その子の泣き声に迷惑していない。むしろ「どうやったらあんなに大きな声出るんやろ。身体の使い方うますぎる」って感心している。)
劇場の空間は、否が応でも僕と日常を切り離してくる。
エントランスを入る。チケットを千切られる。宣伝チラシの束を受け取ったり受け取らなかったりする。ロビーで開演を待つ人々。ときたまそこに演出家が混じってたりする。劇場空間に入るための重い扉。座席に着くまでの階段。すでに座っている人の前を「すいません」と言いながら通ること。自分の席に座ってお尻の具合を確かめること。
開演前の舞台を眺める。緞帳が降りてたら緞帳を観察し、装置が見えてたら装置を観察する。バトンに吊ってある灯体を観察して本編の照明の雰囲気を推測する。前の座席に人が座ったら、舞台のどの辺が見えなくなるのかを想像する。僕の後ろの席の人が見えづらくならないような座り方を探す。携帯の電源を切る。
開演のベルがなる。客席が暗くなる。
この「開演前の一連の儀式」と「劇場という特別な空間」のおかげで僕は、僕の日常から僕自身を切り離し、目の前の演劇に集中することができる。
そこで上演される演劇が面白いから集中しているわけじゃない。
事実、めちゃくちゃにつまらないなーという演劇に出会っちゃっても(けっこうある)、「演劇を見る」という集中力は途切れない。
「つまらない」と思っても、「なぜつまらないのか」を観察しながらその演劇を見続けている。演出や、演技や、セリフや、美術や、衣装や、照明や、音響について、神経を張り巡らせ観察をし、自分の考えをまとめる。
「きっと稽古でこの辺を苦戦したんだろうな」「もしかしたらこんなやりとりが稽古場であったんじゃないかな」みたいなことを、舞台上に立ち上げられた演劇から推測したりもする。
目の前の演劇と関連があるとはいえ、本筋とはぜんぜん違うことをこんなに考えたりしながら演劇を観ることがあるのだ。それは「集中してると言えるの?」というツッコミも聞こえてきそうである。
でも、集中しているのだ。
少なくともそのとき僕は、目の前の演劇と自分自身との交流を途切れさせようとは思っていない。
「これ観るのやめて、食器の洗い物するか・・・」とその座席から立ち上がったりはしない。
劇場の椅子に座った途端、僕に与えられた選択肢はごく限られたものになる。
1、目の前の演劇を観る
2、目の前の演劇を見たフリしながら別のことを考える
3、寝る
ここに「洗い物をする」「ベッドに寝転がりにいく」「読み途中の本を読む」といった選択肢は割り込んでこない。なぜなら、暗い劇場空間では、そもそもそれらは「できない」からだ。
劇場は、専門性の高い空間だ。
演劇を観ることに最適化されている。
逆の言い方をすれば、「行動の自由度が圧倒的に少ない」場所だ。だからこそ僕らはその場所に望んで身を置いて、ほかのあれこれに煩わされずに演劇に没頭することができる。
それと比べると「家」という空間は、自由度が高すぎるのだ。選択肢が多すぎるのだ。情報がありすぎるのだ。まったく以て、観劇に向いてない空間だと思う、劇場に比べて。
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僕は、劇場が恋しい。
あの薄暗い、埃っぽい、見知らぬ誰かの咳がそこかしこから聞こえてくる、あの空間が恋しくてたまらない。
日常のすべてを劇場の外に置き去りにして没頭する、演劇のすべての瞬間が恋しい。
素晴らしい舞台作品が映像として配信されている。それらが素晴らしいことは折り紙付きである。多くの人が称賛した実績がある。
でも、僕にとってその映像たちは、ぜんぜん魅力的ではない。気合を入れて自分のパソコンの画面で再生をしてみても、遥か遠くで起こっている出来事のように思える。ぼんやり眺めることしかできない。
というか、おかしいのだ。僕はNTLが大好きだ。映画館で観る、イギリスの上質な演劇。可能な限りすべての上映作品を観にいっている。NTLが、僕は大好きなのだ。
けれどその大好きなNTLでさえ、家ではとてもじゃないけれど集中してみることができないのだ。映画館という空間が必要だったのだ。重いドア、座席に着くまでのいくつかの段差と「あ、すみません」、お尻から伝わる非日常、そして暗闇。
劇場が、恋しい。
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さて、次に考えるべきなのは
じゃあ、なんで映画は家でも観ていられるのか
についてだ。
考えることは、いつでも楽しい。
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