【いそがしいとき日記】その25
世の中の仕事には
・ゼロをイチにするもの
・イチを2〜100にするもの
・100を保守するもの
があるといいます。
新しいテクノロジーや新研究、新サービスでの起業は「ゼロをイチに」の分類でしょう。既存の市場をより拡大させたりする事業は「イチから増やす」でしょうし、インフラ整備などは「100を保守する」仕事でしょう。
商業演劇の場合、日本のミュージカル界でも有名な「レ・ミゼラブル」などの長く続くカンパニーは「100を保守するもの」に近い仕事なのだろうと思いますが、多くの場合、特に新作の場合は間違いなく「ゼロをイチに」する仕事です。
いま僕の取り組んでいる「2020年東宝版 天保十二年のシェイクスピア」は「ゼロからイチ」の段階を踏んで、「イチを100に」の段階に入ってきました。
戯曲自体は1974年に初演され、その後も何回もの上演がされています。
一文字一文字ことばを積み上げて、この壮大な物語を紡がれた井上ひさしさんの仕事はまさに「ゼロからイチ」ですが、今回の上演は史上数回目の上演とはいえ以前のプロダクションの再演ではなく、新しい演出家による新プロダクション。
上演すべき台本はすでにあるにしろ、上演時間や時代の変化を考慮したカットの考案や、新しい音楽の制作など、「ゼロからイチに」の作業はかなり膨大でした。
ところで僕自身は、「ゼロからイチを」という類いの仕事が大好きで、なにもないところから新しい「なにか」が立ち上がっていく瞬間に携われることが自分自身の幸せの源泉だったりします。
もちろんこの「ゼロからイチ」というのは言葉の表現なので、ご来場いただくお客様に「イチ」程度のものを見せる、ということではありません。
現状、2020年東宝版 天保十二年のシェイクスピアカンパニー(スタッフも役者も互いに支え合いながら助け合いながら船を進めているため「私たちまるで、劇団だよね。「劇団 天保」じゃない?」という呼称も生まれてきた笑)は
演出の藤田俊太郎さんを船頭に、「どんな作品にするのか。どんな景色を描くのか。」という共通の絵を見据え、ゼロから生み出したイチを、どうやって100まで持っていくかに取り組んでいるところです。
衣装の力、ヘアメイクの力、装置の力、音楽の力、照明の力、たくさんのセクションの人々の力を集結し、「天保十二年のシェイクスピア」の世界ができあがってきています。マジすごい。日本演劇界のスタッフさんの力、本当にすごいです。
その上で、僕ら「俳優部」も、もっともっとと貪欲に、さらなるいい芝居を追求しています。
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といいつつも、その取り組みは順風満帆とはいかないわけで。
悩ましい問題もたくさんありましたし、いまの時点でもこれから解決しなければいけない課題がいくつもあります。
で、それが、なんでなんだろうなーと考えたのです。なんでこんなに大変なポイントが多いんだろうと。
そしたらふと気づいたわけです。
そうじゃん。この話って、「荒唐無稽」だからじゃん。
と。
この原作戯曲本の冒頭には
この戯曲を室井琴凌とシェイクスピアに捧げる。
室井琴凌の『天保水滸伝』をはじめとする侠客講談を父とし、
シェイクスピアの全作品を母として、この戯曲は生まれたからである。
とあります。
で、そこに書かれている通り、この作品にはシェイクスピアの全作品のさまざまなエピソードや設定、要素があれやこれやと織り込まれている。
これだけでも物凄い情報量なのに、それに加えて、井上ひさしさんの西洋東洋さまざまな演劇への造詣の深さゆえに、ありとあらゆる劇形式も盛り込まれている。
任侠劇、人情劇、叙事詩劇、メロドラマ、不条理劇、コメディ、風刺劇、ブレヒト的異化効果、ロマン主義的テーマ、リアリズム的場面、歌舞伎の要素、人形浄瑠璃の要素、チャンバラなどなど。
こんなにたくさんの演劇的な要素を盛り込んでしまうなんて、なんて力業なのだろう。
さらにさらに。
「父とし」とされている講談は、よくよく考えてみればひとりの人間による「話芸」です。話芸だから当然、言葉によって物語が綴られます。
言葉だけっていうのはすごい強みで、これは落語もそうですが、言葉を編み上げることによって、現実では起こり得ないようなことを聴衆の頭のなかに立ち上げることも可能なわけです。
たとえば落語には死神が出てきたりする。さくらんぼの種を飲み込んだ男の頭から桜の樹が生えて、それを引っこ抜いた跡にできた穴に水が溜まって、その男自身がその水溜りに身投げして死ぬことだってできる。
講談ならば、百人規模の軍団がぶつかり合う戦を描写した次の瞬間、パッと時間と場所を飛ばして静かな一対一の対話の場面を描くこともできる。時を止めることもできる。
この、「話芸」の縦横無尽さをそのままに戯曲の中に取り込んで、それを生身の人間と現実の装置で立体化しようというわけですから。そりゃあ、大変なわけです。
ありとあらゆる演劇の要素、ありとあらゆる舞台芸術・演芸の要素を、これでもかと詰め込んだこの戯曲。これはもうね、井上ひさしさんの、演劇や演芸や舞台芸術への愛ですよ。ある種、狂気的な愛、といってもいいんじゃないかと僕は思う。
それだけたくさんの情報を詰め込めば、そりゃ、荒唐無稽になります。
この「荒唐無稽さ」をどう現実の板の上に立ち上げて、どう着地点を見つけていくのか。この辺りがこの作品を上演する際の、あるいは鑑賞する際の、面白い見所になってくるのではないでしょうか。
「なってくるのではないでしょうか」なんて、きわめて第三者的な言葉を使ってしまいましたが、僕自身もこの作品を作り上げる「劇団 天保」の一員です。
ご覧いただく皆様に、ぜひとも楽しんでいただける作品になるよう、一所懸命がんばっております。期待をもって開幕を待っていてくださいね!
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さて。
今日は稽古場で初めて、俳優部とオーケストラが対面した日でした。
宮川彬良さんの楽曲の魅力はもちろん、これまでの稽古でもビシビシと感じていましたけれど、これがオーケストラによる立体的な音響によって再現されると、さらにさらに素ン晴らしくって!
編成は比較的タイトですが、それでも降り注いでくる音の情報量はものすごいのです。
まず、リズムセクションのグルーヴが・・・。
これ、不思議な発見なのですが、このところ寒さやら疲れやらで、昨日あたりから少し喉の調子が悪かったんですけど、今日のオケ合わせでオケのグルーヴの中でウキウキしながら歌ったら、喉の調子戻りましたからね。
これぞ、グルーヴ療法。
いい音楽は、心も身体も癒してくれるわけです。それぐらいすんごくカッコよく小気味よくハッピーなグルーヴです。
あとウィンドセクションの使い方が・・・。
タイトな編成のオーケストラの中で、印象的なキャラクターを担っているのが木管楽器。
あんまり先回りして「この楽器とこの楽器が!!!」とかの種明かししちゃうのは勿体ないんで、開幕してから情報は小出しにしていこうと思いますが。笑
宮川さんのアレンジというか、オーケストレーションの巧みさに唸り続けた1月27日でした。
あと、特筆すべき要素はいくつかあるんですがそれも後日・・・。
この作品の「音楽」も、ぜひぜひ楽しみにしていてください!!!
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今日は「天保十二年のシェイクスピア」のことばっかり書いちゃいましたけど。
まあたまにはそんな日があってもいいでしょう。
他にもいくつか書きたいトピックもあるんですが、それはまた折りをみて。
明日はどうやら関東甲信越で大雪の予報があるようです。みなさん、気をつけて過ごしましょうね。
新型の肺炎の流行も注意喚起がされています。デマに踊らされることなく、手洗いうがいといった基本的な感染症予防を徹底し、よく寝て、よく食べ、健康な演劇人生を、一緒に死守しましょうね。笑