小さな世界と広大な世間
グローバリゼーション。
経済や文化が国境や地域の枠を超えて交流し、交換される時代がきてしばらく経ちますし、インターネットやSNSの登場でその規模とスピードはますます増してきました。
人工知能を利用したchatGPTや翻訳アプリを利用すれば、違う言葉を使って暮らしている人同士も簡単にコミュニケーションが取れる状況にもなりました。
自分と違う文化に触れたり、"最先端の"欧米の価値観を取り入れることはなによりも善だ、という考え方が日本でも前提となっているところがあるし、より遠くの場所へ/より外へと知見を広げていくことが賞賛される時代はいまなお続いています。
ただ。
世界中の文化や価値観という「ざっくりした枠組み」だけでなく、広い世間のなかでそれぞれに生きている個々人の言葉や考え方が、自分の指先のすぐ向こうに迫ってきているのが、スマートフォンやSNSが普及した今という時代ですね。
情報が更新されていくスピードは目まぐるしく、センセーショナルな事件や出来事が毎日新しく勃発し、それについての真偽もわからない言説が僕自身の生活の中に一方的に流れ込んでくる。
そうすると、それについての自分なりの考えを、なにか発信しなければいけないような気持ちになる。沈黙は多数派への賛成票と同じだ、なんて言われてしまった日には、自分の考えと言葉を自分の中に留めておくこと自体がなんだか悪いことのようにも思えてくる。
世間はどこまでも広く、そこで起きるできごとは超高速のスピードと都会の雑踏ほどの騒音で、僕の生活の上を通り過ぎていきます。
そんな状況にうんざりしながら、けれど僕たちは、外と繋がることは良いことだ、さまざまな価値観を知ることが大切だ、多様性は尊重し合うべきものだという正論の眼差しの透明さにたじろいで、世間と自分の世界とを隔てる窓を閉めることをためらってしまうのです。
世間の価値観から自分を切り離すのは退化のような気がして。世間の移ろいのスピードに乗り遅れるのは悪いことのような気がして。
けど、時代は変わっていきます。
ひとつの場所と繋がることでしか生きていけなかった時代から、国境や地域を越えて活動ができるグローバル時代に移り変わったように、いまおそらく「グローバルな時代」から新しい時代に移り変わろうとしています。
世界と繋がる回路は持ちつつも、自分ひとりを核とした「小さな世界」を再度大切にする時代です。
目まぐるしくすぎていく出来事と情報にアクセスできる窓をぜんぶ塞いでしまう必要はない。けれど、その窓の外の流れに自分の存在すべてを委ねる必要もない。
むしろ、荒れ狂う大嵐の日に家の中にじっとしていて、うねる風に枝葉を揺さぶられる大木の姿をじっと見たり、雨の勢いを窓ガラスを叩く雨粒の音から感じたりするように、「ここにいればひとまず安全だ」という自分の世界をきちんと確保しつつ窓の外の騒乱を静かに観察するような、そんな過ごし方が必要なのかもしれません。
世間は広大で、そこで起こる出来事はあまりにも多い。
なるべくそれらの全てにアクセスしなければ、この世界の一員として生きる資格がないように感じるというのもわからないでもない。僕もそういう気持ちがないかと言えば嘘になります。
ただ、世界というのはそんなに単純ではないはずです。
日々起きる事件のすべてにしがみつくことばかりが、この世界を生きることではないでしょう。
これはもしかしたら無責任にも聞こえる主張かもしれませんが、「目の前で喧伝されている事件ばかりが世界ではない」というのは、じつはどこまでも当たり前の事実でしょう。
たとえば僕は、僕自身の小さな世界を豊かにするために、足繁く和菓子屋に通います。
四季折々の創意工夫がほどこされたお菓子を買ってきて家で皿に盛り、その意匠や色彩や味わいを楽しむ。茶を点てて、その香りを嗅ぐためにたっぷりと大気を自分の身体の中に吸い込む。
そこには社会運動も政治活動もないけれど、僕という存在を安全な場所に置く力はある。荒れ狂う風雨から僕という身と心を守るために、きっちりと窓ガラスを閉じることができる。
かといって、外界と完全に切り離されるわけでもない。僕はその窓から外を眺めることができる。自分の身と心の安全を美味しいお菓子とお茶とで確認しながら、「あの荒れ狂う嵐の下に出ていくとしたら、さて僕はどうすればいいだろうか」と考えることができる。
これからの時代は世間と自分を、あまり同一化しない方がいいみたいです。
世間で巻き起こる全てのことを自分ごととして受け取るには、僕ひとりの手元に流れ込んでくる情報の量が多くなりすぎました。
広大な世間と自分の小さな世界とのあいだにうすく境界線を引いて、その前の内側をきちんと豊かにしていく。それがいまの時代を生きていくために必要なことかもしれません。
世間と自分とのあいだに引いた線は強固である必要はありません。いちど引いたらその線を二度と動かしてはいけないわけではないし、その線の内側から外へ出ちゃいけないということでもない。
けれど確かに「そこには線があるのだ」と自覚しておくことが、自分の何か大切なものを守ることに繋がるのだと思うのです。