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舌切りすずめの戸締まり


すずめの戸締まり


新海誠監督による、すずめの戸締まり。

暫くこの考察を書こうと思っておりましたが、中々説明の為のパーツが集まらずにおり、待機中でした。

先日の霊界と神界の違いの記事を書いて、ようやくパズルのピースが揃いましたので、ここに書き出してみたいと思います。

とはいえ、過去記事の焼き増しみたいな内容になると思います。


興味がある方、ない方。
お付き合いのほど、よろしくお願い申し上げます。



ピーチクパーチク、うるせー!



すずめの戸締まりの予告編を見た最初の印象。

黒髪ハウルが出ているな…。

それくらいですね。



そして、本編を見た感想。

すずめがうるせぇ。
チュンチュンチュンチュン、雀みたいだ。

水の中を歩いたローファーのまま学校に行くとかありえんでしょ。
体験したことはないかな?
足がカポカポ言って、陰圧が中に発生して気持ちが悪いよ。

宮崎の人は「ばってん」とは言わんよ。

芹沢の車のナンバーが369だな。

新海誠、鳥居を重要視し過ぎだよね。

そして、女性蔑視が過ぎる。

お気づきになられましたか?
Twitterを中心としてネットで一時期話題になった、#kutooというタグ。
パンプスで通勤する女性が否定の声を上げた騒動です。

私も例の人をどうかと思いますが、作品から件の騒動を制作者が内心で小馬鹿にしていたのがダダ漏れになっていました。
幾つも出てくる、靴の描写。
これでもかと印象付けてきます。
女はピーチクパーチク、クソうるせぇ頭空っぽな生き物だ、という念を存分に込めておりますね。


私はフェミニストを自称していないので冷静に観ていましたが、ツイフェミのような過激派がこれに勘づいたら大変なことになりますよ。


まあ、これが普通の男の人なのでしょう。
新海誠の心の奥底に潜む女性蔑視観と比較したら、宮崎駿初期作品に見られる聖母信仰なんて可愛いものです。



それはおいといて。
おいといてもいい話です。



映画の重要キーワード。

「お返しします」

すずめは何を返すのか?というお話。



結論から言うと、すずめの行動原理は舌切雀ですね。


むかしむかし。
雀の子が、おばあさんが使う洗濯のりを全部食べてしまったので、怒ったおばあさんは雀の子の舌をちょん切ってしまいます。
嘆いたおじいさんは雀の子を探しに出かけ、途中で雀にもてなしを受けます。
雀にお土産を貰ったおじいさん。
大きいつづらと小さいつづら、どちらが良いかと聞かれ、おじいさんは小さいつづらを選びます。
家に帰ると、小さいつづらからは金銀財宝が飛び出してきました。
おばあさんは、おじいさんに何故大きい方のつづらを選ばなかったのかと責めました。
おばあさんはおじいさんに場所を聞き出して該当の地へと赴き、同じように雀にもてなしを受けました。
そして、同じように大きいつづらと小さいつづら、お土産にどちらが良いかと聞かれ、おばあさんは大きいつづらを選びます。
おばあさんが家に帰ってつづらを開けると、中から虫やら妖怪やらが飛び出してきました。
おじいさんは呆れ返って、小さい方にすればよかったのに、と言いました。

不公平なお話だと思いませんか?
悪いことをしたのは雀の子なのに、最終的に雀の舌を切ったおばあさんが酷い目に遭っています。

ここで女性蔑視過激派は
「当然だ」
と言いますが、もし自分がおばあさんの立場になったらどう思いますか?
同じことを言えますか?

男女の軋轢の蠱毒皿です。



しかし、この話のオチは、おむすびころりんや花咲かじいさん、こぶじいさんと同じ流れになっています。

昔話のテンプレートです。
良いことをした人が得をして、悪いことをした人が罰を受ける。

無理矢理オチを作った感じです。
楠山正雄氏は、何の疑問も持たずに物語を発表したのですね。

おばあさんは、悪いことをしたのでしょうか。

したんでしょうね。
雀の子の舌を切ってしまったのですから。
やりすぎです。

とはいえ、舌を切られた雀の子は言葉を話すことは出来ないでしょう。
物理的にも、象徴的にも。

舌を切られると、通常の生き物は死にます。
しかし、雀の子は生きておりますので、これは象徴としての意味として取ることを察せなければなりません。

舌を切る=言葉を取り上げられる。
という比喩として扱わねば、舌を切る意味がありません。

この物語の中では雀の子は歌を歌っていますので、それは当てはまっていないですね。

おしになっていないといけない。


そして、ここでは洗濯のりとなっていますが、糊と海苔、則をかけて。

則。
つまり規則。
最低限、守らねばならぬ倫理観。


海苔は?


おにぎりワショーイではなくて。

ここに、ちょこっと書いた分別の話ですね。
またしても例え話です。


これを、雀の子は安易に破ってしまった比喩とも取れます。


おばあさんの堪忍袋の緒を切ってしまったのです。
決して、してはならぬことをした。

そうでなければ、おばあさんが舌を切るなんて暴挙に出るでしょうか。

のりくらいで、じゃないんですよ。

そこは、絶対的な倫理観と相手の事を考える道徳心を持ち出して、雀の子はおばあさんを酷く傷つけた、としないと物語そのものが成り立ちません。


登場人物全員、人の心を持たぬサンドワームの群れだと言うのですか?
それなら道理が通りますがね。

化け物の巣に紛れ込んじまっただ


断片的な情報と勝手な邪推を以て、感情の赴くままに生きるだけになっています。


おじいさんはおばあさんの事情を無視しますし、おばあさんは賠償の件で慾をかきすぎている。
雀の子は、おばあさんが怒りっぽい人物であると察せないクソアスペです。


しかも、つづらのお土産の中身をどうして変えたのでしょうね。
大きいの、小さいのと。
両方とも、サイズも中身も同じにしろよ。

つづら

もてなしは兎も角、お土産は半か丁かのびっくり箱とか、悪趣味にも程がないですか?


破綻していますよね。

これが、人間関係の常です。


いびつ


こういった、残念な畜生人間図鑑に載りそうなエピソードを次から次へと発生させながら、人類は歴史を作り上げていったのです。


それが、すずめの戸締まりに出てくる、岩戸の中身なんでしょうね。


ミミズ

これは、もののけ姫の祟神と同じものでしょう。

全国各地に点在する、人間関係の軋轢から発生した蠱毒皿の毒が大地に染み付いたものと推測出来ます。


突然現れる扉。

ミミズを扉の向こうへ押し込める役目。

何故、すずめにミミズが視えたのか?


一度しか映画を視聴しておりませんので記憶が曖昧ですが、なんとか記憶の棚から引っ張り出していきます。





スピ全開で行くぜ!


すずめの戸締まりの重要キーワード。

  • 天岩戸

  • うるさい雀

  • 三本足の椅子

  • 白猫

  • 黒猫

  • 常世

  • ポッと出の弥勒


まず、天岩戸は天照大神が閉じこもったというだけの意味ではないことを前提として話を進めていきます。

天照とは太陽の象徴ですが、天照大神は肩書でしかないものです。

これは、象徴として誰もが皆、霊魂の中に持っているものですね。

神話の中では「核質を隠して世界は回る」という比喩の現れになっています。
本音が言えない、建前だらけの世界。


そして、ミミズは自己の持つ心の奥底に巣食うもの、となります。

あれは神ではないです。
心の中に降り積もった、恨の念。


人によっては扉の向こうは青空と草原。
何もない原っぱ。
またある人によっては、この世とあの世の境界線。
またある人によっては、これまで見てみぬフリをしてきたモノが積もり積もって具現化したもの。


すずめの場合は、祟神でしたね。


では、閉じ師である宗像草太は一体何なのか。
その謎を解くべく、我々はジャングルの奥地へ向かいました。

彼はシャーマンでした。
イケメン魔法使い、ハウルの現れ。


そして、草太はすずめの椅子に宿ります。

母親の形見の、三本足の小さな椅子。

これは、文殊菩薩の現れです。

元記事参照


精神界の鼎領域を司る、文殊菩薩。

つまり知恵を貸してくれる人ですね。


閉じ師・草太の正体は、椅子です。


彼は人間ではないのですね。

すずめの中だけに出てくる、ミミズと同じ視えない「ナニカ」。
友人の芹沢が369の車に乗っているということで、やはり彼も少し変です。


ミロクの音は、そう易易と出してはいけないものです。
何らかの巫覡が現れます。
使わない方がいいですよ。
量子もつれのお釣りがやってきます。

それがあなたにとって、利のあるものなら良いですけどね。


すずめの母、つばめ。
椿芽と書くようですが、椿の花は根本からそのまま落ちるということで昔から不吉の象徴とされておりますね。
そして、つばめは男の愛妾を意味します。
すずめの母・つばめが、文字通りツバメを送り込んだ、と読めますね。

つばめは、東日本大震災で命を落としました。
そこで三本足の椅子が絡んできます。

文殊菩薩・知恵の守り神として、母が娘に送り込んだ守護。
それはともかく、つばめはすずめの好みを理解していた、となります。
イケメン好きかよ。
面食いのミーハー娘。


最近の、軽いノリの女子高生ですね。


そして、物語を引っ張るのが、白猫と黒猫です。

右か左か大臣がどうとかは、正直どうでも良いと思っていましたが…。

これは、霊的な象徴で見ると、自分が自分の世界の中で王となった場合、意見してくる、もしくはパートナーとなるモノ、となります。

天使と悪魔、どちらが自分に味方してくれるかは不明。


神霊的には

白猫は癒やしの始まり
黒猫は癒やしの完了

となります。


最初に出てくる白猫のダイジンは、真の人間道への導きの現れ。
途中で弱った状態で出てくる黒猫のダイジンは、人間道への到達の合図。


この物語は、すずめの霊的な試練であった、と読むことが出来ます。


しかして、すずめは最低限持ち得ていなければならないものがありました。

それが、舌切り状態。
もしくは、しきたり?
のり。


すずめが真の意味でモラルを得るための、試練としてのキーワードですね。


映画の中では、清楚っぽく可愛らしい感じに描かれているようですが、実はちょっと足りないんですね。
心が。

草太に恋愛感情を持って接してはいけないし、そもそもおばさんに甘えすぎです。


そして、白猫ダイジンに「嫌い」と言われておりますので、すずめは試練に打ち負けています。

ミミズとして具現化した、恨の念を癒やしきれなかったことを意味します。

癒やしの入口であることを告げる白猫が、拒否を示した。
白猫は黒猫が弱っているのを見て落ち込んでいる。

この話は
「日本を巻き込む誰も知らない大事件」
ではなく
「日本を舞台とした、すずめが主人公の、すずめの為だけに用意された試練の世界」
と読めます。

そして、最後の常世ですね。
これは、その先が魔法族かマグルかの答えの違いだけです。

これは別に大した要素ではないですが、物語の最高潮のキーワードとして扱われていますので、一応出してみました。


舌切りすずめは、これまで知らず知らずの内に多くの人を傷付けて生きてきました。
舌を切られるほどに、誰かに恨まれて。

そんなある日、突如として現れた試練。

案内役としての魔法使い。
そして右大臣、左大臣。


案内役としての魔法使いは、すずめの場合はイケメンの宗像草太でしたが、人によって変わります。
可愛い幼女かもしれないし、同い年くらいの友達かもしれない。
家族かもしれないし、ライバルかもしれない。

右大臣と左大臣の姿も、同じく人によって変わります。
猫かもしれないし、ワニかもしれない。
うさぎかもしれないし、神かもしれない。

個々のミクロコスモスによります。


この物語は九州から東北までを旅をしていきます。
様々な人と触れ合い、助け合いながらすずめは駒を進めていきます。

すずめの世界だけの事件ですから、ミミズもすずめに関連するもの。
つまり、過去生を辿っていることになります。

全国を点々と転生し、その度にすずめは舌を切られるようなことを繰り返してきました。

いろんな人に会いましたね。

運良く良い人に会えたみたいですが、何らかの加護が無かったらどんな目に遭っていたか分かりません。

出会った人達は全員、死後の世界で仲良くしているソウルメイト達でしょう。
有り得ない仲の良さ。

すずめはなんとか、戸締まりを続けていきます。


しかし、ここで苦言を少々。

夏とはいえフェリーの甲板で寝るのは寒いですよ。
風邪をひきます。

そして、全然歯を磨いていないことに気付いてください。

更に言うと、お金が全然足りないです。

途中、財布の中身は大丈夫なのか?とハラハラしました。
スマホの充電も。


更に、すずめの図々しさ。

なんでこんなに図太いんだ?となりました。


叔母の環に頼れない、というのも辛い。
しかし、なんだか良い感じにまとめられて…いいのか?これ。


いいんです。

これが、すずめの物語なのだから、これで正解なのですよ。



物語というのは、完結までキャラを走らせて、それで全てです。

そして、キャラが選んだ行動に良い悪いは存在しません。
キャラクターの生き様をクローズアップして描いているのだから、そこでジャッジするのは絶対に駄目です。

俯瞰して見る。


例え、すずめがミーハーだろうが、おきゃんだろうが、図々しかろうが、チュンチュンうるさかろうが、それはそれで良いんですよ。

そこに裁きの念を持ってくるのは、人間的に未熟が過ぎます。


完璧な人間は存在しないし、主人公は不完全な人間でなければならない。
これは、物語に欠かせない絶対的な条件。

そうでなければ、事件そのものが発生せず、文字通りお話にならないからです。


すずめは、いつかの自分の行動の結果を向き合うことを求められた。

草太は、その手伝いをするのみ。

すずめを中心に、世界が回っただけ。
それだけですよ。


手助けとなる魔法使いは、今回は「閉じ師」という役割を背負っていました。

すずめの心の奥底に巣食うミミズを、扉の向こうに押し返す力を貸すだけの存在。

個々の精神によって、天岩戸、戸締まりの先の世界が変わります。

金銀財宝が飛び出てくるかもしれないし、妖怪変化が飛び出すかもしれない。


こうに書くと、不安になりますね。
いいのか?
また出てくるよ、ミミズ?
となりますけど、いいんですよ。

すずめがそう決めたのですから。

ミミズと向き合うには、すずめは五月蝿すぎる。
悟りきれていない。
口を慎むことを知らない。
だから、今回は割れ鍋に綴じ蓋で。

「お返しします」

これが、今回の試練ですずめが選んだ答えです。

そういうルートを選んでいるのだから、それで正解なのです。

すずめがそうだというのだから、そうなんです。


それが、心の中は誰にも縛られない、完全なる自由であるという現れです。


手助けとなる魔法使いは、これに逆らったり反対してはいけないのです。
少し影のあるイケメンということで、すずめの心のままに「踊り」ます。


間違っているとか、正しいとか、そういった考えの一切を捨て去るべきですね。



精神試練の一例が上手いこと表現された、秀作だと思います。


すずめが世界に翻弄されて、そのように世界が動いている。
ダイジンが異常なまでに世間に注目されていますが、すずめの中では大事件が起こっているので、過剰なまでに反応しダイジンの存在を観客に強く印象付け、重要なキーワードであると位置づけないと、これまたお話になりませんからね。

短い時間の中で収めるのに、トントン拍子というか少しばかりノリが軽めになっても、それは全然問題ないですね。
映画ってそういうものです。

ジェットコースターみたいに、あっという間に過ぎ去る仮想空間ですので。


この考察は、あくまでも私の私観です。
こういう風に考えないと辻褄が合わないな、と思っただけです。


それでは、さようなら。

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