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ゲド戦記について


リアタイで映画鑑賞した


宮崎吾朗監督のゲド戦記。

あまり評判はよくないようですが、私は嫌いではないです。

しかし一回観ただけという状態です。
うろ覚えで色々書いてみたいと思って、PCを開きました。(サイテー)




不遇のごろーちゃん


まず、吾朗監督は不遇です。

親の七光りと言われ、影で血の滲むような努力をして育ちました。

アニメ制作はゲド戦記が初めてと言われていますが、そんな訳ないだろ、と思います。
そのくらいクォリティが高い。
特に動きなどは非常に鮮鋭で、第一線で活躍してきたアニメーターじゃないの?と思ったくらいです。

大方、パヤオ監督が自宅に仕事を持ち帰って、ごろー氏に密かにアシスタントを強要し続けていたとかだと思います。


「コンテ切ってみろ」

「分からないです」

「やれ」

「はい」

こんな感じで。


見様見真似でプロ顔負けの仕事を無給で続け、地味に実力をつけた。


そして、アニメ監督以外の世界で活躍する為の努力も欠かしませんでした。
何故って、いつでも父親から離れて自活できるようにしないと格好がつかないと思うのは当然でしょう。


そして、転機が訪れました。

長年のオファーの甲斐あって原作者からゲド戦記制作の許可が下りたにも関わらず、その時はタイミング悪くスタッフの誰もが皆モチベーションが地に落ちきっていて、誰も制作したがらないという信じられないようなことが起きたのです。

そこに白羽の矢が立ったのが、吾朗氏。

言い方は悪いですが、嫌な役をとことん押し付けられる立場の弱さはずっと健在です。


「ゲド戦記を作れ」

「無理です」

「やれ」

「はい」


とにかく努力しました。


どうしたら良い映画になるかな?と過去のジブリ作品を全て視聴し、世界名作劇場まで一通り観て、雰囲気のおさらいをします。

ジブリの雰囲気をそのまま生かすか。
絵柄は手癖になって染み付いているから問題ない。
動きは…ひたすらイメトレだな。
フランダースの犬の動きの粗さは非常に勉強になる。
最終回辺りになると良くなるが、それまでは「こうにしてはいけない」という見本市だから。

歌を広告塔にするかなぁ。
目玉がないと駄目だな。

いきなり父親殺しとかいうテーマの追加。
無理難題を押し付けられて、なんて意地悪なんだろう、と思ったことでしょう。

現実の僕はお父さんを殺す気なんてないんだけど…。
殺伐としていますねえ。


という訳で、思考に思考を重ねた結果が、あのゲド戦記です。


アレンは罪の呵責で藻掻き、だからクモに囚われた、という流れを無理矢理作って事なきを得たようです。


ゲド戦記は、とにかく動きが凄いです。


髪の動き、液体の流動性、細部まで意識された仕草。


画像はフリー素材から拝借。

クモの髪の動きが、重力に忠実に従っていて感心します。

「おお、しっとりだけど指通りの良いサラサラヘアーだ」
となります。

飲ませてくる黒い液体が微妙に粘度が高くて、普通じゃ無い感があって良いです。


しかし、問題がありました。
ストーリーが唐突過ぎる、という。


ナウシカみたいに2巻までのストーリーで小綺麗に纏められればよいのですが、ゲド戦記はそうもいきません。

影との戦いのエピソードをしっかり語らねばならなかったので、無理が生じてしまいました。

結果の、詰め込みすぎ。


  • アレンの葛藤

  • 物語の中で絶対的な悪役の活躍と説明

  • 広告塔のテルー

  • 真の名のシーン

この4つのキーワードをねじ込むには説明不足でした。

世界名作劇場のペースで、ゆっくり丁寧に説明しつつ物語を進めるべきでしたね。


しかし、苦し紛れにも関わらず吾朗氏は物語を丁寧に噛み砕いて、限られたフィールドの中にお話の欠片を散りばめていきました。

「絶対、原作者様に叱られるわ。腹括っとこ」
とか思いながら。


ごろーさんはイケメンなので、上手いこと意識高い系にまとめた…筈なのです。

しかし、結果は惨敗。
仕方ないですね。


不利の中の不利の不遇な状況で、健闘した方だと思います。
背景を考えると、100点中200点です。





仇となったリアリティ



リアリティを出しすぎて、それが却って良くなかったシーンがあります。


テナーの作る食事です。

いつも同じ。
毎回同じ。


恐らく、それは西洋を舞台とした物語という視点で見ると当たり前田のクラッカーなのだと思います。

毎日同じスープを食べ続けている。


収穫できる野菜は限られていますから、馬鈴薯を中心として火を通した満足感の出る簡単な食事といえば、あの赤っぽいスープくらいしかないのでしょう。


金を持っている層の食事も、このくらいが限度。

時代背景と身分差を考慮した、リアリティのある隠れ名シーンです。



しかし、ジブリ特有の「美味しそう感」からかけ離れている。
それが良くなかった点。


ジブリ飯、なんであんなに美味しそうなの?
それはパヤオ監督の願望が詰まっているからさ。
彼は紅の豚なので、豚らしさのあるロマンを描きたいと常々思っているのです。


戦後の、空腹が常に隣り合わせにあった幼少期。
それを経験したパヤオ監督は、食事に夢を詰め込むことが制作の目的になっていました。
しかし、豊かな時代を生きた吾朗氏には、そこまでの渇望が読みきれなかったのですね。

コクリコ坂では改善されていましたが、ゲド戦記は初期作品ということでそこだけが未熟と言いますか…。
ハードル高いですね。


コロッケは美味しそうに描かれていたよね。

昔の肉屋のコロッケを思い出して、練習に練習を重ねたのだと思います。
米櫃とにらめっこして、お米の動きを何度も確認したり。

ぼくの夢…。
ビーフジャーキー、好きだったかも…。

とか考えながら。



しかし、アレンは作中病みに病んでいたので、食事が美味しそうに見えないという描写も必要だったのかと考えると、全否定は出来ません。

「平民の食事…食べたくない…」

と、王族のアレンが思うのは当然でしょう。


甘ったれの坊っちゃんが、自分の未熟さ故に足掻き大暴れするお話ですので。

グレることも女の子をいじめることもなく、龍と出会う感動体験をしてアレンは前に進めたという、思春期の男の子にしちゃ健全な流れです。



どうすれば深みを出せたか


ゲド戦記の限られた環境で、スルメみたいに何度も旨味を絞り出すように描く為には、真の名というキーワードをもっと全面に押し出す必要があったと思います。

テルーの唐突な説明で出てきますが

「昭和作品によくある唐突な重要シーンのねじ込みと勢いでなんとかしようとしているぞ」

というテクニックが用いられていますね。
恐らく、無自覚でしょう。



アレンに対し、テルーが

「あなたの真の魂の声を聞かせて。今の名前の使命に振り回されているの。マコトの名の力を発揮して、迫りくる影を振り払って!」

とかなんとか、悟りきったことを強く言い放たないと、キーワードが上手く活かしきれないですね。

多分言っていたと思いますが、ちょっと足りないんですよね。


とはいえこの辺りの表現は、かなり高度なテクニックそのものを行うこと、その繰り返しから自然に生み出されるものなので、いきなりは出てこないですね。

私も完成作品を見て、10年以上経ってからやっとこの認識が出てきたという具合で。
なんか…まとまらなくて。





ごろー氏の "マコトのナ" の心からの叫びは、テルーの唄の歌詞に詰め込まれています。

実は映画が上映された頃、私は若さゆえの青臭さから、テルーの唄みたいな雰囲気に良い目を向けていませんでした。

「ケッ。パッと見深そうな歌詞で、実はそうでもないんだろ。こういうスピリチュアルっぽい意識高い系の雰囲気は嫌いだ」

とか思っていました。

期待せずに映画館で鑑賞。

唐突にシーンが始まりテルーが歌いだし、アレンは心洗われて涙します。
しかし、その頃の私は
「ほーん。月並な展開だ」
と斜に構えて見ていました。

この頃はアニメーション及び創作物に対し、マイナスな視線を向けがちだったんです。
中二病からの高二病からの大二病です。
すみません、キツイこと書いて。


しかし、この歌詞の真髄は最終構成期を迎えた更にその先のまとめ期に入らないと、視えないようになっております。


今見ると

「なんて健気なんだ…。凛として美しいね…( ;∀;)」

となりますけどね。

かなり大人向けですわ。
10〜20代やそこらのペラペラには理解できないです。


結局、このお話は
「本当の自分の意志そのものは常に隠されていて、周囲の環境に引きずられて血迷うけど、真の自分の識の流れをいつでも読み取って。時に上手く行かなくてもへこたれず、真の意味で自分軸を輝かせて」
という内容です。


しかし、ジェットコースターみたいな流れで描かれているので、そこまで読み取るのが少し大変です。
響かない人には本当に響かないでしょう。


そういう人に向けて、パヤオ監督は「キラキラ要素」を散りばめて、広い層に向けて少しでも良かったと感じるシーンを深層心理に残そうという姿勢でいるようですけどね。

例えば、借りぐらしのアリエッティで、ピアスでカーテンを登っていくシーンとか。
崖の上のポニョの動き全般とか。
ワクワクをギュッと詰め込んで、本当に言いたいことを巧妙に隠していますね。

全部は評価しなくてもいいから、とにかく一瞬でも心に残せれば御の字。
ということみたいですよ。


あまり本当のテーマをチラ見せすると、「説教臭い」とかで怒り出す人が出てきますので。

誰もお前に説教していないのだが?となりますが、どこかで後ろめたいものがある人、抑圧の中にいる人はとにかく反発しがちです。
そして自己投影ありきの創作物の世界観では、感情移入に失敗するとそれだけで駄作と成り果てますからね。

しらんがな、となりますけど、そういうもんなんですよ。




ちな、若かりし頃の私はですね…。
サラ・ブライトマンの出演するオペラ座の怪人のOPを見て、背筋がゾワッとするくらい感動する感性でありました。

見事なシャンデリアの復活と同時に世界が色と光を帯びて、物語が始まるシーンです。


インパクトを求めていたんですよね。

今見ても「凄い」となりますが、やはり最初の感動なるものはなかなか再現されませんねえ。


今は、あまり強いインパクトは求めていません。
物語の中のインパクトとは、派手な演出だけに留まらないことを分かっているからです。

シーンの端々に時折光るダイヤモンドの輝きに、リアルな明度及びコントラストは関係しないのです。


とにかく、創作というのはかなり難しいです。


イメージを引っ張り出したり、昔の空気感をそのまま忠実に再現することの難しさ。

私は今、それについて少し悩んでいるところです。

忠実に再現するのが難し過ぎる。

自分の認識の変化と成長要素が入ってしまって、別物に変わってしまう(T_T)と、頭を抱えています。


好きなものを思いっきり前面に出す、という意識を超越しないと、到底行えないですね。
自分を如何に殺すかの領域ですので。


ある種のイタコ行為です。




そういえば、ゲド戦記の評価で
「雲が綺麗」
というのを見た気がします。


例に倣って斜に構えた見方をすると、私はネットで空の写真などを喜々として投稿する人の気が知れないと思っているので、その辺りの評価を適当に流していました。


夕焼けなんて一瞬で終わってしまうもので、二度とは同じ風景を見れないかもしれんけど、それを別段スナップしたいとは思わんなぁ…と。


あんまり空に興味ないっていうか…。
星は見上げますけどね。


しかしながら、クリエイターとして仕事をすることになったら話は別です。
目にする空という空の写真をパシャパシャ撮りまくって資料にし、スプレーブラシを使って練習に練習を重ねるでしょう。
筆で描くと重たくなりますので、輪郭および影付けくらいに収めて、と。


クリエイターなら、フィルターを使わないように努力します。
ちっとも技術が身につかないわ。
フィルターを作る側くらいにならんとね。


お遊びの素人なら、フィルターを乱用しても全然いいですけど。


そろそろお開きとします。

それでは、さようなら。

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