ルーツ
なぜ年老いた人は、自分史を書きたくなるのだろう?
私自身も中年になり、その気持ちが少し理解できた気がしている。
自分の知る半世紀プラスを振り返り、見つめ直し、安らかで、穏やかな老後を過ごすためではないかと思うようになった。
そのための時間が持てる私は、幸せ者だと改めて思う。
その環境を与えてくれた、多くの方々に感謝を込めて。
私は1964年、東京オリンピックの年に生まれた。
今の私がココにいるのは、生まれた環境や、数々の出逢うべくして出逢った友人、知人。その時代の状況のおかげ。そして、自身の心のYESとNOの選択だった。
時にYESNOを間違えたことを反省しながらも、今へのプロセスだったと認識している。
間違ったのは、すべてエゴだった。
自分勝手な欲望のエゴは、判断を狂わせる。
その時の感情に従ってみるしかわからず、暗中模索の中、今に至る。
もう誰も傷つけたくない、誰にも迷惑をかけたくない。そう思った時、まずこの言動、この行動は、自分のエゴなのかどうかを精査する基準に悩んだこともあった。
そんなころ、ある記事の中で『エゴは創作するためのものであれば許される』という一文を読んだ時、救われたような気がした。
人は、創作(クリエイト)を辞めた時、終わりを迎えてしまう。
創作するには、『創りたい』という衝動が必要だ。
その衝動が抑えきれなくなった時に創作してしまう。
そんな『創りたい』もの、ことなら許される。。。
許されるとは、誰に?
それは心の中にいる、ネ申。だ
このネ申は、読んで字のごとく、いいネ!だったり、そうだよネ!というネを申すカミで、それは、自分だけじゃなく、ネ!という共感で繋がった家族や友人知人もネ申だ。
ネ申の言葉は内なる自分や他人にあり、
ネ申は八百万。
宇宙まるごとの中にある。
ネ申に許されるクリエイティブなこと・・・??
それは、自分がただ生きるために必要な最低限のものを創ること。と思った私の選んだサードライフは、百姓として生きていくことだった。
ファーストライフは、社会のネ申に従いつつ、楽しむこと。
セカンドライフは、社会と心のネ申に従いつつ、楽しみながら子育てすること。
サードライフは、心のネ申と、宇宙のネ申に従うこと。
それは5年ほど前からはじまった。
宇宙のネ申の中には、太陽のネ申、地球のネ申なども含まれるので、ひとまずは地球のネ申に許されることを、自身の心のネ申のYESNOの指針にしようと決めた時だった。
このサードライフ。面白いのは、なにせ宇宙のネ申だから、それに従おうとすると、自然は待ってくれないどころか、YESならトントン拍子に事は進むし、NOならストップが入る。熟考期間も与えてくれたり、そのタイミングはおそるべし。
少し流れに外れたりすると、今はそのタイミングじゃないんだと自分を戒められる。
まるでサーフィンのごとく、波に乗ったり、越えたり、潜ったり。波待ちしたり。
いやいや、そういえばすっとそんな感じの人生だったなと思いながらも、必死に『普通』になろうとして、普通でいたかったファースト、セカンドライフを思い出す。
普通って何だろうね?
普通になりたいっていうのもエゴだものねえ。
映画のフォレスト・ガンプの主人公のように、宇宙に従っていればよかったのだ。
そして他人に迷惑をかけないようにするには、自分の食べ物、老後、経済、を自立させること。
自立とは、一人で立って生きていけることだ。
2人の子供が県外に就職して自立したあと、私は老後問題をきちんと考えようと思った。
お金の問題は切実だ。
近年、老後2000万円問題が取り上げられたが、それは都会に住む場合のことで、自分の土地を持ち、お金がなるべくかからないように生活すれば、毎月の出費は最小限に抑えられる。
そこで『百姓』。そこに意識を合わせていると、その道はトントン拍子で、人や物、土地までもがたった1年ほどでステージに上がり、上下左右わからないままぐるぐる目の回る速さで2020年を迎えた感じだ。
百姓とは、100の姓を持つ事だそうだ。
生きることのためにさまざまな姓を名乗りものを創る人たちのことだ。
じつは、戸籍をたどると、姓名も何度か変わっている。
ネット歴、パソコン通信時代から含めて約30年。
ネットで現在使用している名前、または使用していた名前がいくつもある。
まさに。その言葉の通り、私の天職というか、役割は、百姓だったのかも知れない。
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