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初詣~いつもと変わらない平凡な元旦
以前はもっとうきうきしていたが……
忘れないうちに書いておこう、というほどのことでもないのだが、今年の初詣はいつもと変わりない平凡なお参りだった。
「心機一転、今年は頑張るぞ」という決意もなく、「今年こそは!」と張り切るような覇気もなく、年が改まることへのさしたる畏敬の念もない、年中行事の1つをこなしただけのつまらない初詣だった。
以前はもっとうきうきした気分で過ごしたものだが、最近は心の昂(たかぶ)りを感じなくなった。
原因はいろいろあるのだが、1つは母が亡くなったことである。
母の死による喪失感と虚しさ
長生きした母は数年前にあの世へ旅立った。もう親に会えない、声を聞くこともできないという喪失感がこれほど大きいとは想像もしなかった。
せめて夢に現れて何か言ってくれよと思うのだが、一度も出てきてくれない。それがまた無性に寂しいのである。人生のいろいろな局面で出会ったしょうもない連中の夢は見るというのに。
くどくど説教されて「こん畜生め」と思うこともあったし、考え方の違いから衝突することもしばしばだったけれど、自分自身が親になってからは、子を思い心配する親の気持ちが痛いほど分かるようになった。
もちろん、「なんであんなことをしたんだ」「そういう考え方、捉え方はおかしいんじゃないか」と不満に思ったことは多々ある。
それでも、ある時期を境に、そういう不満や反発心に勝って、「生んでくれてありがとう。育ててくれてありがとう。叱ってくれてありがとう。助けてくれてありがとう」と感謝する気持ちの方が強くなった。
母が亡くなってから、何だか張り合いがなくなったような気がする。脱力感を覚えることもしばしばだ。
親のありがたみなど少しも感じていなさそうな子供たちを見ていると、余計に虚しい。
時々、ふと「自分も早く父や母のいるところへ行きたい」と思ったりして、「おい、ちょっと待て。まだ早いぞ」と慌てて打ち消すのだが、だからといって、沈んだ心が雨上がりの空のようにからっと晴れることもないのである。
穴場の神社仏閣か近くの氏神様へ
独身の頃は大晦日の夜に鎌倉へ行き、鶴岡八幡宮や建長寺、円覚寺などを横目に、一晩中、市街を取り囲む山々(標高が低いので山と言えるか疑問だが……)の誰もいないハイキングコースを歩きまわり、朝方、由比ヶ浜の海を眺めて帰ってくる、なんてこともよくあった。
結婚してからはそんな無茶はできないので、元旦の朝起きると大急ぎでお雑煮をいただき、鶴岡八幡宮、川崎大師、成田山新勝寺などの有名どころへ行くことが多くなった。
だが、どこへ行っても人人人でごった返している。いつからか、穴場の神社仏閣(たとえば調布の深大寺、世田谷の松陰神社)を見つけて行くか、夜中に近くの氏神様に参っておしまいにするようになった。
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妻と見たオリオン座の流れ星、おみくじは末吉
今年は紅白歌合戦が終わった頃、妻と息子と3人で近くの神社まで歩いた。近くの氏神様は結構大きな神社で、社殿もなかなか立派である。
深夜0時15分頃に着くと、もう鳥居の外の通りまで行列ができている。境内を見ると、意外にも曲がりくねった長い行列で、お参りまで少なくとも30分はかかりそうだった。
澄み切った夜空にオリオン座が見えたので、そのあたりを眺めていると、三つ星の近くにすーっと一筋、大きな星が流れた。
「おっ、流れ星だ」
「わたしも見た。はっきり見えたね」と妻。
「え、どこどこ?」とスマホをいじっている息子。
お参りを済ませ、お札を買っておみくじを引く。今年は末吉。昨年は凶(!)だったから1ランク上がった。
夜中の初詣はとにかく寒い。屋台で甘酒を買い、飲んで暖まりながら帰路に就いた。