メッセージのなかに「自分」がいた
幼い頃からささいなことが気になった。
畑の小さな花を踏まないよう、つま先立ちで歩いていた。
誰かの発する言葉の意図を見つけようとしていた。
オフィスでしかめられた眉にまで意識がいってしまったことも。
同じものをみても「わたしは気にならないタイプ」という同僚の心をひとつかみ、ほしかった。
むりやり気にしない人を装って自分を騙したこともあったが、結局素の自分が顔をのぞかせ、リセット。
ついに飽和し「心療内科へ行く」と自分の積載限度を何かがやぶって歩いていったことがあった。
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最近持ち物の取捨選択をした。
しばらく読んでいない本。
昔使っていたカメラ。
会社へ向かうモチベーションをもらっていた音楽プレーヤー。
そして、結婚式の席次表に手が伸びた。
(ケースも厚くなったな……)
そこからときがゆっくり流れ、さまざまなシーンが頭のなかで躍る。
ドレスの色当てをしたこと。
カーテンが開くと海のブルーと木漏れ日が眩しかったこと。
お酒飲み同士が結ばれ、ビール全種類が並んだこと。
涙のスピーチをした友人、時間をかけて選ばれたであろうドレスの色、大樽を割ったときの笑顔、遠くから笑顔と寂しさ混じりの顔で新婦を見守る、お父さん。
懐かしみながら、もらったメッセージを一枚、また一枚、読む。
「明るいね」
「誰に対しても分け隔てなく接していたね」
自分も知らない自分がいた。
ささいなことが気になってしまう自分が、
いつの間にか人の傷つく部分を踏まないように歩いていた軌跡があった。