「障害者は感動ポルノ」

「障害者は感動ポルノ」ということばは、オーストラリアのコメディアンでジャーナリストのステラ・ヤングさんが最初に発したことば。
(TED動画)
https://www.youtube.com/watch?v=8K9Gg164Bsw

今さら「感動ポルノ」論争に火をつけるつもりはないけれど、そろそろ(問題だらけだった)パリオリンピックも終わり、パラリンピックが始まろうとしている時期なので、改めてこの問題を考えてみたくなった。

通常のTVの偽善的な障害者報道(報道だけでなくバラエティ、ドラマも全てそうだが)に NHKの自称・障害者バラエティ番組の『バリバラ』が挑戦的な姿勢で番組制作を始めて久しい。
これは、簡単に言えば目線の違い以外の何ものでもないのだが、この手の論争は(問題の本質をあぶり出してくれるので)多いにやって欲しいと思っている。
しかし、やはりメディアは、この論争をいつも「感動か笑いか」という風に論点をすり替えてしまう(この点は、ひょっとしたら『バリバラ』に出演されている障害を持った人たちがNHKというメディアに利用されている向きもなきにしもあらず)。
私は、TVを持たない人間だが、『バリバラ』がどんな番組かはよく知っている(つもりだ)。
いろいろな障害を持つ人たちが主役で進行するバラエティ番組(だから、バリアフリー・バラエティなのだろうが、最初にこれを観た時「なんだ?!このタイトルは?!」という違和感は正直拭えなかった)。
一方で(民放では)健常者目線で「世の中の恵まれない人に愛を」的なキャンペーンを行う偽善的チャリティ番組が横行する。
目線がまったく違う。
ステラさんが訴えていたのは「障害者を健常者の感動のネタにするな」ということ。
障害者が未だに「フリークス」を見るような目で見られているということと、その「フリークス」を見ることによっていかに健常者が優越感に浸ろうとするかを「障害者は感動ポルノ」ということばで表現したのだ。
その意味では、ステラさんは「感動も、(人間の)欲望(のひとつ)だ」と定義していることになる(だから、意図的に「ポルノ」という言葉を使った)。
まあ、考えてみれば、TVなどの娯楽は、常に「感動」を求めているのだ。
というか、人間って、いつも「感動したがっている」動物なのかもしれない。
最近よく言われる「心のバリアフリーを」みたいな論調も笑止千万。
バリアフリーに心と身体の区別なんかあるものかと私は思う(「心のバリアフリー」ということばはメディアや施政者にはとても好都合なことば)。
本来、バリアフリーとは(これ自体、和製英語だが)、この地球上すべてにある(健常者が障害者を見るような)「上から目線」を排除することであって、性差別、年齢による差別、仕事による差別などをなくし多様性を大事にすることも、環境を守っていくことも、イジメをなくすことも、基本的にはまったく「同じこと」。

喜劇王チャップリンや哲学者ニーチェもこのことを(別の言い方で)表現している。
チャプリン曰く「人を笑わせるためには、自分を(相手より)落さなければならない」。
つまり、「笑い」とは、人の優越感を満たすものであって、そのためにチャップリンは自分自身を(面白おかしくして)落し、人を(優越感に浸らせて)笑わせようとした。
そして、ニーチェも「同情とは軽蔑である」と言いきって、人の心の(中に潜む)欺瞞を明確に言いあてている。

よく見かける光景だが、(人を笑わせる)芸を持たない芸人は、目の前のお客さんをネタに(お客さんを落して)笑わせる。
が、このやり方は論外。
芸人が(自分を高いところに置いておいて)お客さんを上から目線で落して(笑わせて)「どうするの?」。
それって、もはや芸じゃないでしょ?
ここまで言えば、「障害者は感動ポルノ」論争のポイントが見えてくる。
人間が笑うという行為はまさしく優越感そのもの。
健常者は「障害者を見て(自分はそうではないことに安堵して)同情する」。
つまり「同情」して、「優越感」に浸って、「感動」するという、ごくごく簡単なロジックだ。

その意味では、「感動する」ことも「笑う」ことも本質はまったく同じ。
だから、「感動か笑いか」なんていう論点自体がナンセンスなのだ。
TVの「チャリティ番組」が偽善と言われるのは、その番組を見ている視聴者の心から(この)「優越意識」をぬぐい去ることができないから。
とはいえ、この「優越意識」を人間から取り去れと言ってもそう簡単ではない。
人間社会にはもともと「階級(クラス)」というものが存在していて、お互いに「上だ、下だ」「勝った、負けた」と言い合っている以上(というか、現代の人間社会ってここにしかこだわっていない)、人の気持から「優越感」も「劣等感」も永遠に取り去ることはできないだろう。
ならば、せめても、「人はみな違う」「人の違いを認めて生きていく」という「多様性(diversity)の意識を伸ばすことによってしか(間接的に)人のサガである「優越感(=上から目線)」を排除していくことはできない(と人々は考え始めているのだ)。
大多数の人が「人と同じ」ことをして生きている(あるいは、生きようとしている)日本社会でこの「多様性」の意識を根付かせるのはそれほど簡単ではない。
日本社会で「個性」は「自分勝手」と勘違いされ易いが、実際は逆。
相手や社会に対する細かい配慮なくして「個性」を伸ばすことはできない。
自分のしていることやろうとしていることをまわりに認めてもらうための不断の努力が、結果としてその人の「個性」を認させることになる。

だからといって、私は「障害は個性の一つ」などという言い方はしたくないし、それは「違う」と思う。
問題はそこじゃない。
障害があるかないかが問題なのではなく、逆に「障害があるかないかなんてのはどうでも良いこと」という意識ですべての人間が共存できることの方がはるかに大事なことだからだ。

生前、(脳卒中で半身麻痺になってしまった)パートナーの恵子の「作品展」を地元の伊豆高原のギャラリーで何回か開いたことがある(彼女は昨年他界した)。
そのたびにローカル新聞の記者が取材に訪れた。
彼女の作品のほとんどがデコパージュやトールペインティングなので、一からその知識を教えなければならなかったが(若い男性は基本的にこうしたクラフトに関心は低い)、出来上がった記事はきちんと整理されとても好感が持てる内容だった。
なによりも良かったのは、ことさら恵子の病気のことや身体の不自由さを強調していなかったこと。
記事のほとんどを作品の紹介に徹してくれたのは、きっとこの記者の若さもあるのではと思った。
障害や感動で人目をひこうという記事ではなく、恵子の作品とその作品に興味を持つ人たちを(記事によって)つなごうという意識がその記事から感じられて私は気持がよかった。

私のパートナーである恵子自身が障害者になり、彼女と一緒に毎日生活する中で考え体験したことは「貴重な体験」とかそんなヤワなことばで言い表せるものじゃない。
でも、一方で、こうも素直に思えた。
今ある自分、今そこにある現実を受け入れられないことが最大の「不幸」であり、目の前にあることを素直に受け入れられれば、人は(誰でも)幸せになれるんだ。
こんな簡単なロジックに人はなかなか気づきにくい。

その意味で、彼女(54年間のパートナーだった恵子)と過ごした最後の13年間(この時期だけ彼女は障害者だった)が私の人生にとっても最も幸せな時期だったと心底言えることが、多分、私にとっての「幸せ」の一つなんじゃないのかな?と今思う。

そんなことを考えていたら、資生堂の女性社員で視覚障害の方が営業部門で活躍しているという記事を目にした。
もはや、「障害者は感動ポルノかどうか」など問題にするような時代ではないのかもしれない。

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